6月の生活

まつばらの民話をたずねて

私たちの暮らしや生活様式、子どもたちの遊びなど、時とともに変わってきました。その月々の生活や行事など、昔はこんなことがあったのかと、今では懐かしいと思う行事や遊びなどを紹介していきます。

6月の生活

水無月の文字
6月、田植えのイメージイラスト

 松原の人々にとって6月は、一年の生活を左右する特別重要な月でした。通称だんご田、ひやけ田と呼ばれる土地以外は、半夏至のだんごを食べるまでに田植えを終える慣わしでしたので、6月から農繁期にはいりました。田植えの準備は6月12日頃からはじまって、半夏至の7月3日頃までの間に田植えは終了しました。どうしてこれ程の日数が必要であるか不思議に思われるでしょうが、広大な河内平野の中にある松原は常に水不足でしたので、田に水が入らない場合は、水が入るまで田の仕事が出来ないからです。まず、池から水路を通って田に水が入ります。水を公平に入れる事は大変な事で、『水役』によって決められ、水の配分が行われました。水役とは現在の水利組合の前身です。

稲作農業を中心とする松原の人々にとって水は死活問題でしたので、夏至の6月22日前後の田植え時期に雨が降り、溜め池や田に水が満たされると、満水喜びと言って午後から半日間、家の中でゆったりと遊び、若い者は友達と遊びに出るなどして楽しんだようです。

ついては今の若い人々にとって明治・大正は歴史ですが、この頃に現在の東住吉辺りで生まれて松原へ嫁いだ80歳代後半の女性の話では、その頃はまだ口減らしとなって嫁にいく人の多い時代であったそうですが、この女性も口減らしとして松原へ嫁いで来たそうです。その時、同じ百姓だから嫁いでも生活は変わらないと気楽に考えていたけれど、生家あたりは畑作農業で野菜作りであったのに対して、松原は稲作中心であったので、日銭が入らず、お金では大層苦労をしたと語られるように、松原の農業は、野菜は自宅付近で自給自足程度に作るくらいであったようです。松原がこのような農業形態となったのは灌漑技術が古い時代から大層発達していたことにあるようです。記録によると、1402年に来日した朝鮮使節の一行が水の流れを利用した水車による進んだ灌漑方法などを見て驚いたという一節も残っています。それは、確かに古い時代から単純なしくみながら、はねぎや水車による水のくみ上げや溜め池の利用方法、東除川、西除川水系の狭山池番水の利用や、親池、子池、孫池と水を落としていく方法はもとより、干ばつ時には東除川の水揚げや落堀川の水を逆流させて溜め池に引く、「大和川の龍ぼり」など、どれもほんのわずかな水も無駄にしないなどの水の工面があったからです。また、水の不要期には川や水路の水を溜め池にしっかりと溜めて、田植え期などに備えるなど、時期、用途、場所に応じた的確な方法で水を公平に、かつ無駄なく使用する方法も生み出しており、そんな灌漑技術を目にした朝鮮使節団が、目を見張った事は容易に想像する事が出来ます。こうした灌漑の発達が松原の稲作農業の発達を促し、豊かな松原の土台となって今に至っています。

 さて、6月に入るとまず「らっきょ」と「梅」の漬け込みから入ります。松原では6月の梅雨入りに梅干しを食べると病気をしないと言われ、松原ではたいていの家庭では梅雨入りまで需要が満たされるように一年分たっぷりと梅を漬けたようですが、「らっきょ」は漬けない家もありました。「らっきょ」は日射に関係なく何処でも育ったので植えている家庭もありましたが、「野らっきょ」と言って「のびる」と共に土手などに自生している「らきょ」は小粒で柔らかいので高齢者用に好まれて漬けたようです。漬け物は「らっきょ」「梅」の他に「白菜」「大根」はどことも漬けたようです。

大阪府文化財愛護推進委員 加藤 孜子(あつこ)

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