4月の生活

まつばらの民話をたずねて

私たちの暮らしや生活様式、子どもたちの遊びなど、時とともに変わってきました。その月々の生活や行事など、昔はこんなことがあったのかと、今では懐かしいと思う行事や遊びなどを紹介していきます。

4月の生活

卯月の文字
4月、お花見のイメージイラスト

 5月アキといって「猫の手も借りたい」と言われる、五月にはいるまでの1月から4月までは、色々な行事に囲まれて楽しい思い出がぎっしりと詰まっています。

 松原では「赤子も目あけ」、「泣く子も目あけ」と、この5月の忙しさをたとえるそうです。意味はわかりませんが、きっと「赤子も、泣く子も、一人前に頑張りなさい」という意味だろうと思います。それほど麦まき、綿の種まき、田への水入れ、田植えの準備、田植えと続いて、秋あげまでは、つらい草取りや色々な行事に追われるそうです。そのため、その前の3月、4月は特別の気楽で体休めの月であったそうです。

 4月は四月三日(しがつさんにち)がありました。三月二十五日の春ゴトとはちがいます。春ゴトは天満宮へお参りに行っておもちをつきます。この餅は、アエモチと呼ばれ、餅をあえるのだそうですが、よほど美味しいのでしょう、「春ゴトはアエモチを食べる日です」と答える人もいるほどです。この時に、子供時代には友達とヨモギをつみに行って、よもぎもちもつくってもらったと思い出を語る人もいます。

 四月三日は、家で留守番をする人はいないほど、松原の人々は誰もが出かけたそうです。勤め人もこの日は戦前まで、神武天皇祭といわれる祝日で休みでしたから、男も女も子供も村中がお弁当を持って行ってさわいだそうです。桜が満開の季節ですので、花見の宴があちらこちらで開かれました。布忍、我堂、天美あたりの人たちは、西除川の堤防へ行って花見をしたそうです。今その場所は、昭和57年の台風被害後に西除川の改修で桜の木を伐採してありませんが、高木橋あたりの布忍神社側に続く土手の道には、桜の大木の大きな根っこがうねりをつくり、空は桜の花がトンネルをつくって花の間から、青空がみえるほどでした。

 そのほかに、大和川や池の堤防など、その村々にある花の名所へ朝からござを持って出かけ騒いだそうです。全国各地の知っている民謡を次々と歌い、踊る者もいれば、手拍子を打つ者など入り乱れ、もちろん河内音頭もうたったそうです。お年寄りの男性の話では、「でたこた出たけど声はない、声なし、節なし、音頭なし」これは、ごうしゅう音頭で、河内音頭は、「もお~―ろーォたろえーーーー」だ、そうです。「もろたろえーー」があって、ごうしゅう音頭になり、今の河内音頭になったらしいのですが、今の河内音頭は全く違うそうです。

こうした唄を酒の肴に酒を酌み交わし、女性や子どもは美味しいお弁当を食べながら笑いが絶えない一日を過ごしたようです。お弁当の中身は、巻きずしが中心でいろいろなお寿司をつくったそうで、バラ寿司や柿の葉ずし、いなり寿司、それに卵焼き、大根、野菜の漬け物など、それぞれの家庭の得意料理をつくつてお弁当につめたそうです。

さて、これは四月の行事ではありませんが、松原の人々にとって忘れられない素晴らしい出来事がありました。大正12年4月13日に、大阪鉄道(通称大鉄)が布忍から天王寺(翌年6月に阿部野橋に改名)まで鉄道が開通しました。前年に、道明寺から布忍まで開通していたので、これによって阿倍野から道明寺まで開通したのでした。

 当時は、電車が通ると、若い者たちが大阪へ遊びに行って働かなくなると言って敬遠する村もあった時代ですが、天美、布忍地区の人々は積極的で、天美の当時の村長さんは、鉄道敷地の用地買収にも努力して天美車庫駅(昭和8年河内天美駅に改称)の決定などに奮闘されたようです。その姿に村人も感動を呼び起こしたのでしょうか、この地区では、4月13日の電車が走った日あちらこちらから万歳の歓声があがり、電車が通過した後もしばらく続いたそうです。でも、電車は「客たらん、金たらん」と聞こえる鐘の音をふって走っていたそうです。

 当時はまだ、天美から阿部野橋までと、矢田と針中野の二駅しか止まらなかったので13分かかったそうですが、子供たちは走っている電車に飛び乗ってしかられたと聞きましたので、スピードは遅かったかもしれません。ちなみに当時あんパンが2銭の時代に、阿部野橋~布忍が22銭で阿部野橋~松原が26銭でした。また、この年の12月から貨物車も開始され、布忍からは牛が松原からは金網関係の荷に利用されたようです。

大阪府文化財愛護推進委員 加藤 孜子(あつこ)

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