3月の生活

まつばらの民話をたずねて

私たちの暮らしや生活様式、子どもたちの遊びなど、時とともに変わってきました。その月々の生活や行事など、昔はこんなことがあったのかと、今では懐かしいと思う行事や遊びなどを紹介していきます。

3月の生活

弥生の文字
3月、ひなまつりのイメージイラスト

 三月は子どもたちにも、大人にも一年で一番楽しい月でした。
三月の初午、三月三日のおひな様、三月十六日の伊勢講、三月二十五日の春ゴト、月は変わりますが四月三日のしがつさんにちと続き、子どもたちは一年で一番、ご馳走を食べることの出来る月です。大人にとっても春ゴトが終わると、田の仕事、綿の仕事と農家は猫の手も借りたい日々がやって来ますが、その前のいっときです。

 三月はこのほかに、お名号(おみょうごう)が三月二十九日に三宅であります。これは現屯倉神社宮司さんの先祖宅に親鸞上人が立ち寄られ「南無阿弥陀仏」の名号を残されたと、いうことに由来しています。お名号は、なもで踊り(南無天踊り)、左ききの呼び名を生んだ仏教説話由来説もあるとんど、お伊勢参り、大峰講、御回在(天得さんで親しまれている)、亥の子、十夜などとともに、松原の土着生活信仰が生んだ『松原の生活と風俗』の一つです。

 三月の初午は、村の行事でした。村の中にあるお稲荷さんのお祭りで、大きな神社で奉られる神としての稲荷の存在ではなく、田や稲を守ってくれる隣びとにあたる、狐(稲荷)へ感謝する祭りです。村にある狐(稲荷)の祠の前に縁台を出し提灯を吊り、役員になった者が中心になって暖をとりながら世間話などに花を咲かせます。星が出始めると祭壇が出来上がり、子どもたちも集まって代々村で受け継がれている旗と鐘を受け取ります。

 この祭りは、旗を振りかざし鐘を叩き「正一稲荷大明神、い~なりさんの事ならどこまでも」の唄を、大声を張り上げて歌いながら村の中をひとまわりして帰ります。帰ると大和豆のはじき豆(そらまめを炒った豆)と、きりこ(あられ)をだしてもらい雑談やふざけながらそれを食べつつ休みます。通常は村を一周まわるのですが、若い役員がいるとまた鐘と旗をもって声を張り上げて村をもう一周したり、一緒に回って音頭を取ったりして、大人と同じ扱いをしてくれたそうです。出された豆は、そのころお菓子の無いころなので上等のおやつだったそうです。

 ひな祭りの行事は、由緒ある家で行われていて、一般家庭ではあまり行われていなかったようです。それでも、女児の間ではおひな様ごっことして遊ばれていたようです。おばあさんの中には、近所のお姉さんに端布で男女のお人形をおひな様の時に作ってもらったり、近所の子供に作ったりした記憶があるとおもいます。人形はひな人形ごっこの役目で登場しますが保存はされず、そのまま日常で遊ぶ人形といっしょに使用したそうです。

 伊勢参りは「せめて行きたや一生に一度」と、歌われたほど若者にとっては魅力のある事でしたが、交通の発達によって衰退し、小学校の修学旅行の行事へと受け継がれていきました。

 伊勢参りで行く伊勢神宮は、皇室の先祖をお祀りしているので、参宮する者は流罪となった時代もありましたが、鎌倉時代あたりから緩和され、江戸時代になるとおかげ参りといって、宿泊や食事を道沿いの人々から施しをうけて気ままで非常識な旅が横行したようです。松原でも常識ある旅をするようにと注意書きの触れ書きが立部、岡辺りに出されたようです。

 伊勢参りは、松原では伊勢講と呼び、三月十五日に行なわれる行事です。8才から21才までの男子を持つ親が講を組み、そこで積み立てをして、年に一回この講の中から、21才の徴兵検査になると行く権利ができます。16才以上になると講の積立額によって親同士が話し合って何名か一緒に行くことが出来たようです。この伊勢参りによって一生の友や独り立ちの精神、村での連帯意識・責任などが培われたそうです。

 布忍地区では伊勢参りに行くときは、三つ池まで村人に見送られて、三週間歩いて往復したそうです。帰りもまた、三ツ池まで出迎えに出て、ホシコ(カマスの干した物)、いりこ(ジャコ)、お酒や重箱に卵焼きなどのご馳走をつめて迎え場所の三ツ池で宴会をしたそうです。

 春ゴトは、山の神は春には野に下り田の神となり、収穫の終わった秋の終わりごろに山へ帰られて山の神になるという思想から、農耕の春に来られる神様を迎える行事です。天満宮へお参りに行き餅をついてアンで和えたアエ餅や草餅を神にお供えしたそうです。

大阪府文化財愛護推進委員 加藤 孜子(あつこ)

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