78 多聞院龍昌と更池村惣井戸

更池村惣井戸(南新町1丁目)の画像

更池村惣井戸(南新町1丁目)
同所の説明板や書物には建立者を「多聞院昌」としているが、本文の通り「龍昌」の誤りである。
新町地区には南新町2丁目の称名寺にも惣井戸が残っている。

真言宗僧侶が掘った井戸長尾街道沿いの社会事業

 長尾街道が西除川を渡る布忍橋西詰(南新町1丁目)に石組の井戸が保存されています。もともとは、東側の河川敷にありましたが、西除川の改修で今の新町図書館前に移されたものです。正面に「更池村惣井戸 寛政八丙辰年十二月」とあり、内面には「多聞院龍昌建立之」と刻んでいます。
 更池村の多聞院の龍昌が江戸時代後期の寛政8年(1796)、村人の共同井戸としてつくったことがわかります。井戸は、堺と大和を結ぶ長尾街道沿いに設けられましたので、往来する人々や荷車をひく牛馬の口も潤したかもしれません。

 井戸をつくった龍昌の多聞院は、長尾街道の南側にある真言宗寺院(南新町1丁目)です。以前は河内西国四番霊場として信仰され、その木札が参道入口や本堂(薬師堂)に掛かっています。境内には、四国八十八カ所や西国三十三カ所札所の本尊石仏も見られます。
 寺伝では、平安時代後期の堀河天皇の寛治3年(1189)、向井村に布忍寺(「歴史ウォーク」26)を建てた永興律師が開いたとあります。寺号は堀河天皇勅願の多聞天を安置したことから名づけられました。山門横に「人皇七十三代堀河天皇勅願 多聞天王按置」の石碑が建っています。本尊は室町時代の薬師如来で、当時期の膳や密教法具も残されています。

 一時、法灯が絶えますが、江戸時代中期の正徳元年(1711)6月の「河州丹北郡更池村」の寺院取調帳には、豊臣秀吉時代の文禄3年(1594)に快恵が中興したとあります。ただ、天明5年(1785)の多聞院「過去帳」では、元禄16年(1703)に当寺北隣りにある更池村庄屋の田中氏が再興したと記しています。

 私は、井戸を掘った龍昌を知るため、本堂横の墓地を調べました。歴代住職の無縫塔が何基か残っており、その中に龍昌の墓がありました。正面に「当寺第五世阿闍梨龍昌」、裏面に「享和二壬戌天二月十日寂 行年四十二才 遺子龍宗建立」と刻んでいます。
 龍昌は五代住職、享和2年(1802)、42才で亡くなったことがわかります。墓を建てた龍宗は、のち六代住職となりました。井戸建立時の寛政8年は、四代住職の龍淵が在世していましたが、龍昌が多聞院を代表して社会事業に貢献したようです。
 先代の龍淵は寛政12年(1800)8月、62才で亡くなり、龍昌墓の隣りにその墓が現存しています。やはり龍宗が建立したものです。
 龍淵・龍昌・龍宗時代は多聞院が寺観を整えた時期で、天明5年に「過去帳」を記して寺史を明らかにしたのも龍淵でした。
 現在、多聞院は境内の再整備を行っており、来年春には新しく生まれ変わる予定です。

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