76 北山家墓所に葬られた橘庵

整備前の北山橘庵墓(一津屋5丁目)の画像

整備前の北山橘庵墓(一津屋5丁目)
左はし、その右は父の北山玄昌墓。
和泉砂岩は風化が激しく、橘庵・元寧(菜庵)・元恭(赤城)と元恭の次子で安政6年(1859)に没した
元通(恵松子)墓が新しくつくり直されている。

墓石に刻まれた文人学者たちの撰文と書

一津屋村の北山橘庵は、江戸中期の松原を代表する医者であり、文人でした(「歴史ウォーク74」・「歴史ウォーク75」)。彼は明和元年(1764)ごろ、大坂の詩社である混沌社の同人になるなど、死ぬまで30年近く、多くの文人学者たちとの交友を深めました。

 彼の友人には、江村北海・片山北海・頼春水・細合麗王・木村兼葭堂・篠崎三島などがいました。橘庵は安永4年(1775)、道明寺天満宮(藤井寺市)に「河内土師邑菅公廟碑」を建てますが、この碑文を作成したのも儒者の江村北海であり、文字を書いたのは書家の細合麗王でした。

 寛政3年(1791)は、橘庵の還暦の年にあたります。9月、彼は大坂の料亭に友人や門人を招いて60歳を祝う宴を設けました。招待者は橘庵の寿を祝う詩をつくり、彼も詩を唱酬しました。

 ところが、このころから橘庵は身体の不調を訴えはじめました。このため、医業を弟の元寧(菜庵)にゆずり、喫茶三昧の生活を送ろうとしましたが、2カ月後の11月15日、急逝したのです。

彼は、一津屋の居宅から東へ200メートルほど離れた北山家墓所に葬られました。現在の一津屋5丁目にあたり、長尾街道の北側ですが、周辺は住宅にとり囲まれています。

 北山家墓所は、橘庵の父である北山玄昌が宝暦12年(1762)に亡くなったとき、橘庵が父の墓を建てて、つくったものです。約30坪(99平方メートル)の中に、江戸時代から現代に至る17基ほどが見られます。ただ、平成14年12月に橘庵墓など4基が整備されて、模倣品がつくられ、創建時の4基はまとめて背後に置かれています。

 前列中央に最も古い玄昌の墓があります。儒者の林東溟の撰文、細合麗王の書です。表面に「北山玄昌翁墓表」と記されています。

 玄昌墓の手前、入口側に橘庵の墓があります。表面に「北山橘庵先生墓」と刻し、三面に事蹟を記しています。笠石をつけた高さ五尺(152センチ)、幅二尺(61センチ)の大きさで、もともとは和泉砂岩です。細合麗王の撰文、篠崎三島の書で、友人たちが彼の死を痛みました。墓前には、寛政8年(1796)に門人たちが香葷を手向けるために設けた台石も残っています。

 橘庵墓の後ろに建つ弟の元寧(菜庵)墓は篠崎小竹の撰文、橋本通の書。東南隅にある元寧の子の元恭(赤城)墓も篠崎小竹の撰および書です。元寧墓は天保5年(1834)の建立、元恭は天保9年(1838)の没です。
 北山家墓所に残る文人学者たちの撰文や書は、上方文化を知る上でも、貴重な歴史遺産として今後とも保存していかなければならないでしょう。

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