74 北山橘庵と医術

北山橘庵肖像画(大阪市東住吉区桑津・北山氏蔵)の画像

北山橘庵肖像画(大阪市東住吉区桑津・北山氏蔵)
近世自画像の典型的なスタイルである。
羽織には、楠木氏の菊水をアレンジした家紋が見られる。

丹南藩主や狭山藩主を治療した一津屋の名医

三宅村の妻屋秀員(「歴史ウォーク73」)がさかんに和歌を詠み始めた享保16年(1731)、北山橘庵が一津屋村に生まれました。名は彰、字は元章といい、橘庵は号です。北山氏は楠木氏の一族である和田氏の後裔で、代だい医者の家がらでした。

和田氏は日置荘の北村(堺市)に住んでいましたが、橘庵の祖父である和田正広のとき、一津屋に移りました。その場所は、一津屋1丁目の西ヶ池に面していました。現在、池は東半分が埋められ、恵我南小学校や恵我図書館となっています。

池から東側に目をやると、民家ごしに二本の樟の巨木が空をついているのが見られます。ここが屋敷跡で、樟は楠木氏にちなんで植えられたのでしょうか。
正広の子に和田玄昌がいました。玄昌は大坂で名医とうたわれた北山寿安に医術を学び、奥義をきわめました。このため、師より北山姓を与えられたので、和田姓を棄てたのです。

玄昌の子が橘庵で、彼も父を継いで医業に進み、大坂の橘元泰に学びました。やがてその名声は各地に広まり、来診の客が部屋に入りきれなかったといいます。
地元の大名もその評判を聞き、そのうえ彼は漢文学者としても有名でしたので(次号掲載)、橘庵を厚く処遇しました。

一津屋は丹南藩(「歴史ウォーク」61・「歴史ウォーク」62・「歴史ウォーク」63・「歴史ウォーク」64・「歴史ウォーク」65)の領地だったことから、藩は彼を武士階級に列しました。18世紀後半の明和年間、八代丹南藩主高木正弼が京都の二条城を守る職にあったとき、激しい腰痛をおこしました。京都の医者が治療にあたりましたが、いっこうに回復しません。そこで、橘庵が一津屋から京都に呼び出されました。藩主を診察すると、三度目の服薬をしないうち、正弼の腰痛は治ったのです。正弼は大いに喜び、橘庵に衣服を与えて賞したといわれています。

また、同じ明和年間、七代狭山藩主の北条氏彦が病いにかかったときも、橘庵が呼ばれ、またたく間に回復しました。氏彦は橘庵を慰労して宴を設けたほどでした。八代狭山藩主北条氏 にいたっては、藩領でもないのにわざわざ一津屋の橘庵を訪れています。藩主が医者宅におもむくなど異例のことでしょう。
他にも、岸和田藩主の岡部氏が橘庵を客としてもてなしています。
橘庵の医業は、彼に子どもがいなかったことから、弟の北山元寧およびその子の元恭の家系に受け継がれ、明治時代まで続きました。

いまも、北山家には江戸時代後期から明治30年代までの医学書、診断書、死亡届、薬の効能書、風邪薬の薬袋、薬の処方箋、病い本復のお礼状などが数多く残されています。

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