75 詩文や儒学に秀でた橘庵

橘庵の居宅跡(一津屋1丁目)の画像

橘庵の居宅跡(一津屋1丁目)
一津屋村の西南端にあり、約2反(1,980平方メートル)の広さであった。いまでは、跡地に巨樟が残るだけである。 
江戸時代の中ごろ、一津屋村の北山橘庵は名医として人望を得ていましたが(「歴史ウォーク」74)、歴史的には、むしろ文人学者として世に知られています。

鮮通信使と詩を唱和し混沌社支社を居宅に置く

橘庵は文学を余技としたものの、大和郡山(奈良県)の柳沢淇園の門人となって学問に励みました。淇園は画家として著名でしたが、仏典・医薬・音律にも長じ、多才でした。橘庵は各分野で才能を発揮しますが、それらは淇園の広い学識によるものもあったでしょう。

詩文に秀でた橘庵は、その作「感懐」の中で、淇園を訪れると一日中、経書や史籍を談じあい、終われば楽器を鳴らし、歌い、唱和して歓びが尽きなかったと詠んでいます。明和元年(1764)ごろ、大坂で儒学者の片山北海らがつくった詩社の混沌社の同人となり、のち多くの漢詩をつくるようになります。

また、儒学を学んで古学の古文辞学派の立場から古典の本質に迫ろうとしました。

明和元年、江戸幕府の九代将軍となった徳川家重の就任を祝うため、朝鮮通信使が来日しました。この時、大坂に着いた使節団を迎える役に当たったのが岸和田藩主の岡部氏でした。岡部氏は異国の一行を歓待するため、片山北海や橘庵らに詩を唱和させました。
橘庵33歳の時です。橘庵が使節とかわして集めた詩文が『鶏壇嚶鳴集』です。

明和4年(1767)、橘庵は居宅に混沌社の支社を設けました。そこでは、頻繁に大坂などから混沌社友が訪れて会が催されました。

橘庵宅は一津屋1丁目の西ヶ池に面しており、簷葡室という書斎がありました。庭も「木立泉石のたたずまひ、悉く数奇をこらして」立派であったと伝えています。
安永元年(1772)ごろ、橘庵は屋敷の一角に観頤堂を新築しました。観頤堂は八畳二間の離れ座敷で、玄関に頼春水の「万巻の書を読まずんば、此の堂に登るを許さず」という額がかかっていました。室内には、中国などの漢籍をはじめとして数万にもおよぶ蔵書がありました。そこは混沌社友のサロンだけでなく、河内の人々にも蔵書を公開して図書館的機能もはたしていたようです。

安永三年(1774)5月10日、橘庵は観頤堂で母の70歳の賀の詩筵を開き、その寿詩を『観頤寿巻』として編集しました。 安永9年(1780)4月には、橘庵50歳の寿筵が観頤堂で行われ、8月にこの寿詩を集めて『有菜集』が発行されました。

これらは、橘庵の交友の広さと高い文学水準を示すものです。橘庵は学問の神とされる菅原道真を敬い、安永4年(1775)12月6日、道真ゆかりの道明寺天満宮(藤井寺市)の本殿脇に「丹比北山彰」の名で「河内土師邑菅公廟碑」を建てました。文人橘庵の名を残す石碑として貴重でしょう。

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