73 「積翠集」を残した妻屋秀員

妻屋秀員の墓(三宅東3丁目)の画像

妻屋秀員の墓(三宅東3丁目)
自然石中央に「可雪斎秀員叟」と刻む。
妻屋氏は妻谷とも書き、秀員墓の背後の墓石には「妻谷秀員祖母」とある。

「古今和歌集」の伝統を継いだ三宅生まれの歌人

江戸時代、松原が生んだ文人の1人に妻屋秀員がいます。妻屋家は代々、三宅村の庄屋をつとめていました。秀員は天和2年(1682)に生まれ、通名を平治と呼びました。

 秀員は村役人の職務のかたわら、京都の烏丸光栄・光胤父子に和歌を学び、号を可雪と称しました。光栄は、細川幽斎を経て、のち後水尾天皇や霊元天皇に伝えられた『古今和歌集』(古今伝授)の流れを受け継いでいました。このため、秀員の歌は宮廷歌学の『古今和歌集』を手本としたといえるでしょう。

 秀員は享保15年(1730)から宝暦8年(1758)の29年の間、作歌活動を活発に行ったようです。紀貫之や西行法師を慕い、歌風にもその影響が見られます。

 秀員は京都で催される歌会や、和歌の神として崇敬されていた大阪の住吉大社での住吉会にも熱心に出席しました。また、秀員の母が狭山藩(大阪狭山市)の家老である井出氏の娘であったことから、狭山藩主北条氏や狭山藩家老、あるいは狭山宮や狭山牛頭天王社の催す歌会にも頻繁に出かけました。こうしたことから、秀員は狭山で晩年を送ったほどです。

 秀員は明和2年(1765)、84歳で亡くなりました。しかし、彼の詠んだ歌は死後2ヵ月を経て、遺言によって秀員と同門であった大阪の加藤景範が遺稿を校訂・書写して『積翠集』と名づけ、住吉大社に奉納しました。積翠とは、秀員が狭山池の畔に居をかまえた積翠亭によります。 『積翠集』には、春191首、夏100首、秋164首、冬127首、恋71首、雑120首、計773首がおさめられています。秀員の48~76歳ころの作品です。

 秀員には故郷の三宅村を詠んだものが少ないのですが、『積翠集』には屯倉神社の歌会での次の2首が載せられています。

 享保15年 月前神祇 三宅邑天満宮法楽
松杉のこのまさやかに影てらす 月夜よさミの杜の神かき

 享保19年 立春暁 梅松院月次会
山かつらくる春みちてあか星の しらむ光も霞むのとけさ  

三宅邑天満宮とは屯倉神社(三宅中4丁目)のことで、梅松院はその神宮寺でした(現在、廃寺)。

 秀員の墓は、三宅の妻屋氏一族の奥津城に建てられています。府道で南北に分けられた三宅・別所霊園のうち、水上ゴルフ場に利用されている大海池寄りの南区画東北部に妻屋氏墓所があります。江戸前期の元禄年間の墓石をはじめ、宝篋印塔や無縫塔も含んだ30基が2列に並んでいます。  秀員の墓は、中央前列に自然石で「可雪斎秀員叟」と刻まれています。自然を愛した風雅人の彼にふさわしい墓石といえるでしょう。

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