70 府文化財となった布忍神社本殿

布忍神社本殿(北新町2丁目)の画像

布忍神社本殿(北新町2丁目)
昭和56年に修理され、彩色あざやかに復元された。
正面中央に「布忍宮」の偏額がみえる。

黄檗宗高僧が保護した神仏混淆の一間社流造

 平成14年1月、北新町2丁目(旧、向井)に鎮座する布忍神社本殿が大阪府指定有形文化財に登録されました。同時に、建立時と思われる寛文3年(1662)5月9日に、近くの清水村(現、南新町)の木下氏が武運長久や無病息災を祈って奉納した木札も府文化財となりました。

 同社は素盞鳴命・八重事代主之尊・武甕槌之尊を祭神とします(「歴史ウォーク」26)。本殿は江戸時代初期の一間社流造、檜皮葺の様式です。身舎の木鼻・肘木や蟇股は豪華で力強く、前代の桃山様式を受け継いでいます。なかでも珍しいのは、蟇股に祭神の素盞鳴命をあらわす仏教でみられる梵字がはめられていることです。わが国宗教の特色である神仏混淆の形式をとどめているのでしょう。

 仏教との関わりでいえば、本殿の正面に「布忍宮」と書かれた偏額が掲げられていますが、これは黄檗宗本山の万福寺第5世、高泉性敦の筆になるものです。高泉は中国から紹かれた高僧で、元禄5年(1692)に万福寺(京都府宇治市)の住職となりました。高泉のような黄檗宗のトップが、なぜ地方の神社の偏額を書いたのでしょうか。

 その理由は、高泉が同時代に河内の法雲寺(美原町今井)を中心に活動していた慧極と親交を結んでいましたので、慧極が仲介したのではないでしょうか。

 慧極は、布忍神社のすぐ南西にある清水の浄林寺(南新町5丁目)の中興開山であり、慧極筆の「浄林寺」偏額が現存しています(「歴史ウォーク」69)。高泉は元禄8年(1695)に亡くなりました。真言宗であった浄林寺が黄檗宗に変わったのは元禄11年(1698)のことで、慧極が浄林寺を中興したのは享保2年(1717)ですから、浄林寺改宗以前、すでに布忍地域は黄檗宗との関わりがあったようです。

 それから、本殿身舎の両側面に描かれている唐獅子や脇障子の随神像も注目されます。これらの絵は江戸時代初期に本殿が建てられたとき、幕府の御用絵師であった狩野探幽が描いたと伝えられています。

 これらの絵を本当に探幽が描いたかどうかわかりませんが、ここでも慧極が関わっているのではないかと思われます。なぜかというと、探幽の弟子に李家正峰という人がいますが、李家氏は慧極の母の岩佐氏と姻戚関係にあったからです。

 慧極の母の妹は長州藩主毛利氏の御典医であった李家就庵に嫁ぎましたが、その子が正峰でした。正峰はのち狩野氏に師事して絵師となりましたが、慧極の縁から布忍神社に狩野派絵師の作品が奉納されたのかもしれません。

 このように、布忍神社には黄檗宗高僧の保護があった可能性が強いのです。

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