69 浄林寺と黄檗宗

慧極の筆になる「浄林寺」額の画像

慧極の筆になる「浄林寺」額(南新町5丁目)
慧極は詩偈・書・絵にもすぐれ、多くの遺品が各地に残っている。

慧極と龍統の黄檗宗高僧が再興した古刹

 江戸時代前期、中国・明僧の隠元によって禅宗の一派である黄檗宗がわが国に伝えられました。本山は京都府宇治市の黄檗山万福寺です。黄檗宗寺院は中国の儀式や様式を受け継ぎ、万福寺の歴代住職の多くは中国僧でした。

 この黄檗宗寺院が市域にも一か寺、法灯を続けています。それが南新町5丁目、清水の長尾街道の南側に建つ清水山浄林寺です。

 浄林寺は、もともとは真言宗でしたが、一時荒廃したため、元禄11年(1698)に住職の瑞光が黄檗宗に改宗して万福寺末となりました。しかし、再び寺運が衰えてきたため、享保2年(1717)になって慧極と龍統という、当時の黄檗宗の高僧が浄林寺の再興にたちあがったのです。

 慧極は小田氏で、長州国萩(山口県)の出身。長州藩主毛利氏に仕える武家でしたが、万福寺に入り、隠元なきあと、黄檗三傑の1人といわれました。寛文12年(1672)、河内国丹南郡今井村(南河内郡美原町今井)に法雲寺を建て、以後50年にわたり、同寺を中心に各地で教えを広めたのです。その間、毛利氏の菩提寺として萩に東光寺も開きました。

 龍統は志方氏で、大阪の生まれ。慧極の弟子でした。享保2年、龍統は荒廃していた浄林寺の復興を願い、慧極を請じて開山と仰ぎ、みずからは2代目住職となったのです。このため、浄林寺は万福寺末から法雲寺末に変わりました。

 この時、慧極86歳、龍統55歳でした。慧極の筆になる「浄林寺」の寺額が浄林寺本堂正面に掲げられています。

 慧極は浄林寺を再興して5年後、享保6年(1721)、90歳で亡くなりました。その墓石が法雲寺に今も残っています。いっぽう、龍統はその後、萩の東光寺第6世となり、さらに元文5年(1740)には、万福寺の第14世となりました。万福寺住職は初代の隠元以来、13代まで中国僧でしたが、龍統はこの先例をやぶり、日本人としてはじめて住職に任じられた人でした。

 現在の浄林寺は本堂と庫裏が1つとなった古建築で、本尊は地蔵菩薩像です。黄檗宗は臨済禅を継承して、江戸時代は臨済正宗と称していましたので、本堂に祀られる歴代住職の位牌には「臨済」の名が記されています。本堂の南側にそびえる楠の大木の下に、歴代住職の石塔や戦国時代の石仏・一石五輪塔が見られます。

 お盆の8月15日、浄林寺住職もおつとめに加わる法雲寺万灯会には各地から多くの人々が訪れ、先祖の霊をなぐさめています。私は、文政8年(1825)から始まった幻想的なこの河内の風物詩に心がいやされるたび、中国風寺院としての性格を持った黄檗宗がわが国の風土にとけこんだことを感ぜずにはおられません。

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