62 丹南騒動で抵抗した農民

高木氏の墓石の画像

高木氏の墓石(東京都杉並区永福・栖岸院)
栖岸院は高木氏の生国の三河国村高庄(安城市)にあった長福寺が、天正19年(1591)に江戸の麹町(千代田区)に移ったもの。大正9年に現在地に移転。
左は高木清秀(初代丹南藩主高木正次の父)の墓で、3代藩主正弘が寛永 19年(1642)に建立。
右は子爵高木正得が大正11年に建てた高木氏祖先墓。

六本木も青山の地名も丹南藩主高木氏に由来

東京都港区六本木。わが国の流行の最先端をいく歓楽街です。六本木の地名のおこりは、江戸時代に高木・上杉・朽木・青木・片桐・一柳という木にちなんだ名の6大名の中屋敷があったからだと伝わっています。

また、六本木に西接する港区南青山はもともと、赤坂区青山高樹町とよばれていました。いまも、西麻布の首都高速道路3号線出入口は高樹町の名で親しまれており、このあたりに高木氏の丹南藩1万石(「歴史ウォーク」61)の別邸である下屋敷がありました。

河内丹南藩主の高木氏の名が、東京に残るのは、江戸中期以後、藩主が江戸定住であったことから、丹南3丁目に置かれた丹南陣屋は江戸の藩命をうけるにすぎず、家老の西村氏も丹南郡黒山村(現美原町黒山)に館があったという藩システムによるからでしょうか。

ところで、江戸中期の明和年間は凶作や飢饉によって、各地で農民による一揆が多く起こった時期でした。

明和6年(1769)に入って、市域の丹南・向井・清水・高木・堀・池内・一津屋など丹南郡・丹北郡・志紀郡の丹南藩領22カ村でも、前年からの長雨による麦不足や疫病流行のため、農民は年貢を納められず困窮していました。

このため、2月9日、農民たちは藩に対して拝借金や給米を願い出ましたが、江戸定住の八代藩主高木正弼はその上申を認めませんでした。そこで、領内全村の庄屋22人は農民数千人とともに、年貢の納入を拒絶したのです。

同年7月、庄屋22人は徒党をくんだ首謀者として江戸の高木氏のもとに召喚され、3年半も牢に入れられます。 その間、半数の11人が獄死する悲惨な結果となりました。生き残った11人も安永元年(1772)11月21日の裁決で、5人のみが無罪となっただけで、4人が村追放、2人が庄屋役罷免と罰銭五貫文の処分が下されました。

庄屋たちが入牢中の明和6年9月7日、丹南陣屋に接し、高木氏が菩提寺とした来迎寺(丹南3丁目)でも、住持の霊鳳が最初に22カ村庄屋の年貢免除を藩に仲介したことから、江戸へ出府したい旨を融通念仏宗本山の大念仏寺(大阪市平野区)に願い出ています。しかし、10月8日、霊鳳の江戸行きは許されませんでした。

藩主の高木正弼も幕府から、この丹南騒動の処置がよくないという理由で、江戸城への出仕を停められたほどです。

藩主が住んだ丹南藩上屋敷は「江戸城虎之御門内」、いまの千代田区霞ヶ関の財務省西側にありました。正弼は江戸城を見上げながら、丹南領民の心情をどのように思ったでしょうか。

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