63 丹南藩サミットへの夢

高木氏の墓碑群の画像

高木氏の墓碑群(海老名市中新田・海源寺)
6基は高木氏の海老名時代の墓石。清秀の内室や一門の西島寛右衛門などを祀る。
いまも海源寺を檀家とする旧6家臣の子孫の1人、遠藤氏などが維持している。

高木氏が結ぶ松原と安城、海老名、足利市との友好

丹南3丁目の来迎寺(融通念仏宗)は、元和元年(1615)の大阪夏の陣で豊臣方の真田幸村に焼かれました(「歴史ウォーク」60)。

このため元和9年(1623)、丹南に陣屋を置いた初代丹南藩主高木正次のあと、三代藩主となった高木正弘は正保4年(1647)、住職の良清を助けて本堂の再建に着手しました。 万治元年(1658)に上棟され、以後、来迎寺は高木氏の菩提寺として寺観が整うようになりました。また、南隣りの丹南天満宮も夏の陣で焼失しましたが、同じく丹南藩主が復興しました。

このように、高木氏は丹南の寺社に厚い保護を加えましたが、同じことは高木氏が領地とした三河国(愛知県)の安城、相模国(神奈川県)の海老名、下野国(栃木県)の足利でもみられます。

三河万歳を伝える安城は高木氏の生国で、館近くの菩提寺である浄土真宗の妙源寺(岡崎市)には、正次の父の清秀が寄進した経典や烏帽子が残っています。

相模国の国分寺や国府があった海老名は、正次が元和9年に丹南へ移るまでの本拠地です。高木氏が館を置いた海老名市中新田に近い河原口の総持院(真言宗)へ慶長10年(1605)、清秀は法華経を寄進しています。同寺に隣接する式内社の有鹿神社も元和8年に正次の内室が再建したものです。

中新田の諏訪神社に残る元和6年の棟札には、正次が社殿造営の大旦那になったことを記しています。近くの海源寺(日蓮宗)には、高木氏の家臣であった中新田村の遠藤・内田・小川・盛屋・杉本・鈴木の6氏が高木氏を追善して江戸時代前半に建てた高木氏の墓があります。6氏は、正次の河内国替えに従わず、中新田の川寿稲荷社の地に刀を納めて土着したので、子孫たちは昭和41年に境内に「六刀碑」を建立しました。

足利学校で名高い足利は、足利郡五十部・板倉・助戸・菅田の 4カ村が6代藩主正陳の元禄12年(1699)に領地となりました。丹南藩陣屋は五十部の岡田山(代官山)に置かれましたが、いまでは屋敷稲荷神社が残るだけです。

足利郡内の丹南藩領の代官は、明治4年の廃藩まで岡田氏が勤めました。岡田家は学問を好むものが多く、宝暦・明和期(18世紀後半)の岡田秀行は政務の傍ら『足利学校誌』をまとめました。やはり代官で漢詩人として知られる岡田立助も渡辺崋山を足利学校へ案内し、天保3年(1832)には五十部の浄林寺(臨済宗)に住職の隠居所という名目で、崋山のために「離れ」を建てたほどです。

わたしは、近世における丹南藩主高木氏の館や陣屋の縁から、国元の本市が中心となって安城・海老名・足利の人々との文化交流や産業提携などの「丹南藩サミット」が実現できればと期待しています。

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