85 付替えられた西除川

西除川の改流地点の画像

西除川の改流地点
高木橋から北西をのぞむ。
天美中央共同墓地(天美南5丁目)が北側にある。
北流してきた川が西に曲がっていることがわかる。

郷土の水辺は新大和川で妨げられ西に向けられた

 市域を南北に流れる西除川に、全長4キロにおよぶ遊歩道が設けられていることをご存じでしょうか。
 狭山池から流れてきた西除川は岡7丁目の松原市民運動広場をすぎると、聖堂橋をくぐります。散歩道はこの右岸から始まりますが、ここに合流する清堂川沿いの「ツール・ド・大阪、まつばらウォーキングコース」を引き継いでいます。トリム広場を経て、河合・高見の里へ川下に進んでいくと、府道大和高田堺線と 交差する新布忍橋に至ります。コースはここから左岸に変わります。

 布忍神社の前では、江戸時代の「布忍八景絵馬」(「歴史ウォーク」71) を模した八景広場が見られます。しばらく北流しますが、流路は北新町4丁目と天美南5丁目に架かる高木橋の地点で、大きく西にカーブします。道路をはさんで、旧油上・芝・堀村の天美中央共同墓地があります。川はこのまま西流して天美我堂7丁目の「天道の河原」と呼ばれるモニュメントを通ると、堺市に入り、 JR浅香駅の西で大和川に合流するのです。

 遊歩道には、バラ・クチナシ・ハマナス・ツツジやサルスベリ・松・桜も植えられ、四季折々の花や樹木が楽しめます。まさに、市民のプロムナードといえるでしょう。

 しかし、今でこそ西除川は堀と高木の所から西流していますが、江戸時代中頃までは下高野街道の東側を北流して池内村や城連寺村を経て、大阪城付近まで達していました。天美より北では天道川とも呼ばれました。先の「天道の河原」もこの名に由来します。

 宝永元年(1704)10月、柏原から北流していた大和川が西へ付替えられ、天美を経て堺浦へ流れるようになりました。このため、西除川は新大和川に妨げられ、北へ進めなくなったのです。新大和川は河底を掘り下げてつくったのではなく、堤防を盛り土する工法を用いたため、南から流れてきた西除川 は、そのままでは高い堤防が邪魔になって、大和川に流れることができませんでした。
 そこで、西除川を大和川の水位の標準と合わせるため、西除川も大和川と並行して西流させ、深い堀割りになっていた浅香で水準を合わせる工夫をしたのでした。

 宝永元年6月28日、幕府は大和川の付替えの付帯工事として、高取藩(奈良県)の植村家敬と柏原藩(兵庫県)の織田信休に西除川の切違いを命じました。この結果、城連寺村などには水が流れなくなりました。村では、旧川床を利用して富田新田を開墾することにしました。しかし、川底であったため荒砂が 多く、また、大和川付替えと同時につくられた落堀川もたびたび洪水をおこしたので、耕作条件の悪い土地でした。
 大和川の付替えは、西除川の切違いを余儀なくしたように、流域の人々にさまざまな影響を与えたのでした。

このページに関するお問い合わせ先

松原市 市長公室 秘書課
〒580-8501
大阪府松原市阿保1丁目1番1号
電話:072-334-1550(代表)