83 村領を分断した新大和川

大和川左岸から見た右岸の松原市域の画像

大和川左岸から見た右岸の松原市域(天美北4丁目)
大和川を越えて大阪市側に組い込んでいる右岸堤上に市域を示す住居表示板(天美北4丁目)の設置が望まれる。

収穫前の麦畑をつぶされ水害で苦しんだ城連寺村

 今年10月は、大和川が付替えられて300年になります。本市も国や府、および流域自治体で構成する「大和川付替え300周年記念事業実行委員会」に加わり、様々なイベントを展開することになっています。

 江戸時代前半、柏原から北流して淀川に合流していた大和川が松原方面に付替えられることになりました。このため、市域の若林・大堀・別所・三宅・ 城連寺・油上・芝の村々では田畑を失い、水害の恐れのあることから、改流に反対しました。しかし、元禄17年(1704)2月後半、柏原から堺浦まで延長 14キロ、幅180メートルの工事がスタートし、7カ月半後の同年(宝永元年)10月12日に完成するという超スピードぶりでした。

 工事は、川辺村(大阪市平野区)を境に川上は江戸幕府、川下は姫路藩(兵庫県)の本多忠国が分担する予定でした。ところが、3月に忠国が急死したため、新たに岸和田藩(大阪府)の岡部長泰が川辺村領から城連寺村領(天美北)を、三田藩(兵庫県)の九鬼隆方が城連寺村領から庭井村領(大阪市住吉区) を担当することになったのです。

 工事にかかった費用は、落堀川の新設や西除川の付替えも含めて7万7409両。現在のお金に換算すると、140億円にもなります。また、工事に従事した人数は、延べ245万人。近くの村々からもたくさんかり出され、毎日およそ1万人の人々が関わりました。

 城連寺村に残る宝永元年の文書には、農民の窮状を次のように記しています。
 「同村では、四月二六日から工事が始まりましたので、農民は育てていた麦三四町五反のうち、大急ぎで実っていた麦五町を刈り入れました。青麦も刈りましたが、まだ未熟な麦畑が人足足場や堤防・掘土場となることから、農民は五月六日には全ての刈り取りが終わるので、それまで工事を待ってほしいと役人に訴えました。しかし、役人はこの願いを聞き入れず工事を進めましたので、残りの十町歩余りの麦畑が堤の下敷きになったのです」

 城連寺村では、村域の66%もの田畑がつぶされました。その上、工事が完成した10月には南から流れてきた水があふれ、洪水となりました。城連寺村はその後も、毎年のように水害に見舞われたのです。

 改流の結果、城連寺村の北端は大和川で分断され、大阪市東住吉区側の右岸下を走るJR阪和貨物線を境として飛び地のように残りました。近鉄南大阪線の大和川橋梁北側、矢田四号踏切から堤を東へ1キロ余りいった地域まで今も松原市域です。反対に、大阪市が大和川を越えて松原側に複雑に組い込んでいますが、これは300年以上前の村の境界がそのまま現市境となったからです。

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