7 反正天皇と丹比柴籬宮

丹比柴離宮伝承地の跡に建てられた柴離神社の画像

丹比柴離宮伝承地の跡に建てられた柴離神社(上田7丁目)

5世紀代、河内におかれた最初の都

 古墳時代中ごろの5世紀前半、反正(はんぜい)天皇が丹比柴籬宮(たじひしばがきのみや)で即位したと伝えています。大和王権の宮が、河内におかれた初めての出来事です。松原は、この丹比野の一角にあります。

 わが国で最も古い歴史書である『古事記』や『日本書紀』によると、反正は仁徳(にんとく)天皇の第3皇子で、兄履中(りちゅう)のあと、18代天皇となりました。この丹比柴籬宮が上田7丁目の柴籬神社のあたりにあったと伝承されています。同社は、反正天皇などを祭神としています。

 柴籬神社の南門に、「反正天皇柴籬宮址 昭和十九年一月 大阪府建立」の立派な石碑があり、西鳥居前にも「丹比柴籬宮址 大正八年 大阪府」の石碑が建てられています。

 『古事記』の反正天皇の段には「水歯別命(みずはわけのみこと)(反正)、多治比(たじひ)の柴垣宮に坐(いま)しまして、天(あめ)の下治めたまひき。此の天皇、御身の長、九尺二寸半。御歯の長さ一寸、広さ二分、上下等しく斉(ととの)ひて、既に珠(たま)を貫(ぬ)けるが如くなりき。…天皇の御年、陸拾歳(むそち)ぞ。御陵は毛受野(もずの)に在り」と記されています。

 1尺を30センチとすると、反正は身長2メートル77センチもある長身で、その歯の長さも3センチを測るという信じられない数値が見られます。これは、水歯別という反正の名前から、ことさら歯が立派で、珠を貫いたようにきれいであったと伝えられていたからでしょう。天皇は60歳で亡くなり、いまの堺市の百舌鳥に葬られたとあります。
 これに対し、『日本書紀』の反正天皇元年条に「冬十月に、河内の丹比に都つくる。是を柴籬宮と謂す。是の時に當りて、風雨時に順ひて、五穀成熟(みの)れり。人民富み饒(にぎわ)ひ天下太平なり」とあり、その治世は6年におよび、国内は豊作で平和であったと伝えています。

 しかし、ここまでが文献学の限界です。あとは、丹比柴籬宮がどこにあったかは、考古学の成果に頼らざるを得ないのです。現在のところ、宮の存在を確かめる遺構や遺物はまだ見つかっていません。

 当時の宮は、のちの平城京や平安京のように、天皇が政治を行う大極殿や、役人が政務をとる朝堂院などの建物が建ち並ぶ都城ではありませんでした。天皇は宮にいましたが、王権を支える豪族たちは、それぞれの居住地で勢力をもっていたと思われます。ですから、宮跡の検出は容易ではありません。でも、一般の人々の住むたて穴住居や掘立柱建物とは違った突出した宮を想像させるような遺構が、丹比野の地下に眠っていることでしょう。

 柴籬神社のあたりは、宮号を引き継いだ神社名や、神社西方に残る天皇にゆかりをもつ「反正山(はじやま)」の地名などから、宮跡の有力な候補地であることは疑いありません。

 同地は、旧石器時代から近世までの複合遺跡である上田町遺跡に含まれます。とくに、古墳時代のたて穴住居や井戸、壺・甕(かめ)・高坏(たかつき)などの土器、あるいは古墳跡出土の埴輪などが見つかっていますので、今後も宮跡を探すロマンが追い求められるでしょう。

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