6 上田町遺跡と弥生水田

上田町遺跡の水田面の画像

上田町遺跡の水田面で見つかった稲株痕跡(松原市教育委員会提供)

水田に畦・稲株・鍬の跡や足跡が

  松原市役所の所在地は、阿保1丁目1番1号です。現在の新庁舎は、1994年(平成6年)6月に大部分が完成し、同月から業務が開始されました。その際、新庁舎の建設に伴う発掘調査が1991年2月から5月にかけて行われました。それは、市役所周辺が旧石器時代から近世までの複合遺跡である上田町遺跡の一角にあたるからです。

 この新庁舎建設に伴う調査では、古墳時代前期のたて穴住居2棟のほか、溝・土坑・井戸なども検出されましたが、とくに重要な発見は、古墳時代の下面の弥生時代後期の地層から水田と自然河川が現れたことです。

 調査を担当した松原市教育委員会は、4月27日に現地説明会を開き、多くの市民が見学につめかけました。この水田については、このときの資料をもとに紹介しましょう。

 弥生時代は、わが国に水田稲作が定着した時期です。現在知られている最も古い水田稲作の跡は、いまから2千数百年ほど前の縄文晩期の佐賀県唐津(からつ)市の菜畑(なばたけ)遺跡や福岡市の板付(いたづけ)遺跡のものです。

 上田町遺跡で見つかった弥生後期の水田は、いまから1800年ほど前に作られました。
 この水田には、縦横に巡る畦(あぜ)が良好に残っていました。畦の幅は約20センチメートルほどで、ほぼ南北方向の畦を決めてから、東西方向への畦を作ったようです。この畦の中には、1部途切れるところがあるので、これは水田の水を出し入れする水口(みなくち)であると考えられます。 

 調査面積は884平方メートルと限られていましたが、43枚の水田面が確認されました。1枚あたりの水田面の規模は、約16平方メートルと、現在の水田と比べてかなり狭いこともわかりました。

 これは、当時の土地開発力に限界があったか、あるいは現代と比べて水田耕作の仕方が違っていたことによるからかもしれません。

 しかし、最も発掘調査者を驚かせたのは、この水田面に稲株の跡と思われる直径3センチメートルから10センチメートルの円形の小穴が見つかったことです。稲株(いねかぶ)の痕跡は全国では4例目、大阪では初めてのものでした。また、耕作時についた鋤の跡や耕作に携わっていた人々の足跡も残っていました。

 さらに、水田に沿って南から北西に向かう自然河川跡も確認されました。この河川の中から水量を調節する井堰(いせき)や多数の木製品が見つかり、水田経営に利用されたと思われます。

 これらの調査から

  1. この水田は乾田であること、
  2. 当時の水稲耕作は直播きではなく、田植えを行っていたこと、
  3. 農業技術は大陸の乾燥地域のものに起因すると考えられること、

などが指摘されています。

 松原市郷土資料館では、この水田跡の紹介を「弥生時代のまつばら」と題して、常時、ビデオで放映しています。一度ご覧ください。市役所周辺の地下には、まだまだ弥生水田が眠っているはずです。弥生集落は発見されていませんが、水田の近くにあったことでしょう。

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