5 「弥生のムラ」を掘る

八市内出土の弥生土器の画像

八市内出土の弥生土器
右側が高木遺跡出土の弥生時代後期の壷(松原市郷土資料館展示)

「松原人」が定住した時代の幕開け

 現在のところ、松原市内で見つかっている最も古い住居址は、今から1800年ほど前の弥生時代後期のものです。これは、たて穴住居で、北新町5丁目の大池に面する高木町公民館西側から検出されました。高木遺跡の一角にあたります。この時期の弥生土器とともに、堀立柱建物や井戸址なども掘り出されました。

 移転した織物工場の跡に、分譲住宅が建てられることになったので、発掘調査が行われて判明したものです。

 市内では、1万数千年以上も前の旧石器が天美西の大和川今池や岡の清堂遺跡などから出土しています。また、旧石器時代に続く縄文時代の石器や縄文土器も上田町・新堂・高見の里・東新町・南新町・一津屋・立部(たつべ)などの各遺跡から見つかっています。

 ところが、これらの遺物は、人々が住んでいた集落から検出されたものではありません。つまり、市内では旧石器時代や縄文時代の遺物は出土していますが、この時代の住居址はまだ発見されていないのです。これらの遺物は、当時の河川跡などから見つかったものが多いのです。
 ということは、他所に住んでいた旧石器人や縄文人が、狩りの途中、当地で石器を使ったり、落としたと考えられるかもしれません。あるいは、他集落で使われていた石器や土器が、川の流れや氾濫で当遺跡にうずもれたとも想像できます。

 さて、弥生時代はおよそ紀元前4世紀ごろから紀元後2世紀ごろまでの期間をさします。縄文晩期に大陸から伝わった水田稲作が、各地に広がっていきました。それと同時に、各地に大きな「ムラ」が誕生していったのです。

 弥生時代の大阪には、多くの「ムラ」が存在していました。とくに、河内地方は文化の発達した地域でした。東大阪市の鬼虎川(きとらがわ)や瓜生堂(うりゅうどう)、八尾市の亀井や恩智(おんじ)、大阪市平野区の加美や瓜破(うりわり)、藤井寺市の国府(こう)、富田林市の喜志などの遺跡はよく知られています。

 松原では、高木遺跡で見つかったたて穴住居は発掘範囲も限られていましたので、1棟だけでした。ですから、「ムラ」の全体像がはっきりつかめないのは残念なことです。

 ほかに市内では、松原三中北側の東新町第2公園の建設で、弥生中期の土器とともに溝跡や堀立柱建物跡が検出されており、「ムラ」の存在が予想されます。

 一方、壺・甕(かめ)・坏(つき)などの弥生土器は、城連寺(じょうれんじ)(天美北)・池内(天美南)・天美南・高見の里・河合・三宅・阿保・上田町遺跡など、市内各地で見つかっています。

このうち、池内・高見の里・三宅・阿保・上田町の遺跡では弥生時代の河川跡も確認されました。また、上田町遺跡では稲作が行われたことを示す水田跡が出ています。

 こうしたことから、今後、調査範囲が広がれば、松原にも大きな「弥生のムラ」が地下から現れる可能性があるのです。

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