20 田坐神社と田井城

田坐神社の画像

田坐神社。田坐は「田にいます」の意味と考えられる。
田井城は条里制の4条にあたる

条里制にいきづく集落・農地・氏神

 市民の文化・スポーツのメインゾーンとなっている文化会館・中央公園・図書館・体育館・プールなどは田井城につくられています。

 古代にさかのぼっても、田井城は律令制の土地区画である条里制遺構がいまでも各所に残っていることで有名です。歩いていると見過ごしますが、地形図などで確かめると、農地の畔や道路区画、あるいはため池の1辺が約650メートルのほぼ正方形をなすものが見られます。これは、条里制の1里の1辺が約648メートルであることとほぼ一致しています。

 条里制が整然と存在していたということは、奈良時代には田井城に計画的な集落と農地が土地割りされていたことを想定させます。

 この集落の中心に鎮座している神社が、延喜式内社の田坐神社です。

 『延喜式』が編集された平安時代初期、田坐神社は、三宅の酒屋神社や天美地区の氏神である阿麻美許曽神社と同じく、官社として、国家によって統制されていました。現社地は、古い街並が残る田井城5丁目に当たり、境内に西接して浄土真宗の陽雲寺が建っています。

 同社の祭神についてははっきりしません。伝えるところによれば、八幡大神や依羅宿禰、あるいは呉織・漢織の織女を祀ると言われています。
 江戸時代後半、各社を調査した伴信友はその著『渡会氏神名帳考証』の中で、その祭神を稲霊豊宇気姫ではないかと記しています。続けて、信友は天武10年(681)4月に「連」の姓を賜った田井直吉麻呂がいることから、その田井氏の奉斎する神社ではないかとも推測しています。

 田坐は、いまでは「タザ」とよんでいますが、古記にあるように「タ 」とよむのが正しいと考えられます。田井城の東北約6キロメートルのところに、八尾市田井中があります。奈良時代の郷名を記した『倭名抄』に、河内国志紀郡田井郷があることから、両地の間に「タ 」名を介して関連があったかもしれません。

 田井城付近は、平安時代後期に荘園化して田井荘とよばれ、京都の石清水八幡宮領となりました。田井氏や田井荘の名が、今日の田井城の地名の由来となったと考えることができるでしょう。

 田坐神については、『日本三代実録』の貞観4年(862)4月条に「旡位田坐神に従五位下を授く」とあり、つづいて同年5月条に「田坐神を官社に列す」と記されています。

 同社は明治41年(1908)3月、上田7丁目の柴籬神社に合祀されましたが(今も本殿西側に「式内田坐神社」の石標と祠が遺存)、昭和60年(1985)4月に遷座祭が行われ、再び旧社地に祀られています。

 平成9年(1997)9月、本殿新築にともない境内も整備され、田井城の氏神として崇敬されています。

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