17 船氏と「舩」の墨書土器

「舩」の墨書土器の画像

松原市郷土資料館に展示されている大津道周辺遺跡の「舩」の墨書土器

古代水運に利用された東除川

 近鉄恵我之荘駅の北方には、一津屋町遺跡と呼ばれる縄文時代から近世にいたる集落跡が広がっています。その範囲は、東は東除川、西は府営松原一津屋住宅、南は長尾街道(大津道)、北は府道大堀・堺線の一津屋1丁目から5丁目にもおよんでいます。

 とくに、羽曳野市恵我之荘3丁目の老人保健施設と接する長尾街道沿いの一津屋4丁目で、奈良時代後期の掘立柱建物や井戸2基が検出され、一方の井戸から須恵器・土師器が多量に出土しましたが、その中から「舩」という文字が書かれた土器片が見つかっています。

 井戸は深さ3メートル、直径は上部で約5メートル、底部で約1.7メートルを測り、大部分は細長い板20枚を縦に組んだ円形の井戸枠が残っていました。

 「舩」は、須恵器の坏のふたの内側に書かれていました。「舩」の墨書土器は、祭祀に使われたと思われる斎串・櫛・獣骨などと一緒に出土しましたので、これらは船氏に関連する祭祀遺物とも推定されます。(『松原市遺跡発掘調査概要』昭和61年度版)
 船氏は、朝鮮半島の百済から来た渡来系氏族です。『日本書紀』欽明14年(553)10月条によると、船氏の祖の王辰爾が蘇我稲目の命によって、淀川を往来する船舶から通行税を徴収し、それを記録することに功績があったので、船史の姓を与えられたとあります。

 羽曳野市野々上にある野中寺は、船氏の氏寺ではないかといわれています。また、大和川を見おろす柏原市国分の松岳山古墳からは、江戸時代に「船王後墓誌」が見つかっています。船王後は、7世紀前半の推古朝から舒明朝にかけて飛鳥の王権に仕えた官人でした。

 船氏の本拠地は、羽曳野市西部と思われますが、東除川左岸の一津屋で「舩」の墨書土器が見つかったことから、船氏は東除川のほとりで水の神を祀ったのでしょうか。

 東除川は、江戸時代の大和川の流路変更までは、北流して淀川に合流していました。東除川は、7世紀初頭以後、富田林市西条町の河南橋北方の石川左岸から引水され、羽曳野市西浦・古市・高鷲地域を貫流する人工運河の古市大溝と結ばれていました。

 当時、大阪湾の難波津は飛鳥の王権にとっての外交窓口でした。上町台地の東側一帯は河内湖という湖沼でしたが、王権への朝鮮半島などからの品々は、難波津から陸路によらなくても、河内湖-東除川-古市-大溝-石川を利用して運ばれたこともあったでしょう。

 一津屋の東南1キロメートルの東除川右岸の羽曳野市高鷲8丁目に大津神社が所在しています。同社は、船氏と同じ百済系渡来氏族の津氏の氏神と思われます。こうしたことから、津氏や船氏は、東除川中流の津で品々を校閲して記録に残し、それらを管理していたかもしれません。

 「舩」文字検出地の北東300メートルに航海神の市杵島姫命を祀る厳嶋神社(一津屋5丁目)が一津屋古墳上に鎮座しています。いまに至るまで、東除川に航海神が祀られていることは興味深いことです。

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