15 大和川・今池遺跡と古道

難波大道の跡の写真

発掘された難波大道の跡(天美西7丁目)
人の立っているところが道路幅(松原市教育委員会提供)

飛鳥時代の難波大道が検出される

 市域北西部の天美西1丁目から8丁目、および天美我堂4丁目から7丁目のあたりは、大和川・今池遺跡とよばれる埋蔵文化財包蔵地です。堺市常盤町に接しています。

 1978年(昭和53年)以後の大和川・今池下水処理場建設に伴い、発見された旧石器時代から近世に至る複合遺跡です。検出された遺構や出土した遺物は、多種多様をきわめ、市内でも最も古く1万年以上も前から人々が生活圏としていたところと考えられます。

 その後、古墳時代の5世紀中葉から後葉にかけての時期と、6世紀中葉から末葉にかけての時期に50棟前後におよぶ掘立柱建物群を中心とした遺構が見つかっており、集落が成立していたことがわかります。

 集落は微高地に形成されており、その東側の低地からは水田址も検出されました。出土した遺物では、6世紀中葉を中心とした大量の須恵器群が特筆されますが、数点の蛸壺も見つかっており、同地に住んだ人々の海岸での生活様式も視野に入れておかなければなりません。

 7世紀に入ると、集落の様子ははっきりしなくなりました。しかし、7世紀前半ごろには、同地の中央を南北に難波大道と称する古道が通るようになったと推定されます。

『日本書紀』の仁徳天皇14年条に「是の歳、大道を京(難波京)の中に作る。南の門より直ちに指して、丹比邑に至る」と記されています。この記事をすべて信用することは危険ですが、7世紀中葉の孝徳天皇の時代、今の大阪市中央区法円坂にあった前期難波宮(難波長柄豊碕宮)の南門から南方に直進する大道があったことは、ほぼ確かでしょう。
 同じ『日本書紀』の推古天皇21年(613)11月条に「又、難波より京に至る大道を置く」という記事もあります。正確な年代は確定できませんが、7世紀前半の推古朝は対外交渉が活発になる時期ですので、外港の難波と当時の京である飛鳥とを結ぶ道路が整備されていたとしても不思議ではありません。それが難波大道と考えられます。

 埋め立てられた今池北方の堺市境で、古道跡が検出されました。道路の東西両端に幅約0.7~1.8メートルの側溝があり、道路幅は約18メートル、溝の心心幅は19メートル前後を測りました。検出された道路延長は、約170メートルでした。

 前期難波宮から南下する難波大道は、摂津と河内の国郡境界線を直進し、大和川以南では松原市と堺市の境界上を通ると推定されています。側溝から出土した土器の型式は、前期難波宮の時代とそれほど変わりません。また、当時の大和の古道である下ツ道の道路幅ともほぼ合いました。検出された道路遺構は、文献上推定される古道とみてよいでしょう。

 さらに、遺跡内の大和川左岸スーパー堤防工事での発掘で、平安時代後期の12世紀後半ごろのわが国最古級の巴文軒丸瓦などが検出されており、観音堂廃寺と呼ばれる寺院があったことも確認されました。

 同地は、貴重な成果をあげた遺跡として、考古学・古代史上、その名をとどめています。  

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