11 大津道と丹比道の敷設

長尾街道(大津道)の道標

長尾街道(大津道)の道標
(上田1丁目の松原郵便局前)
大阪府が明治43年(1910年)に建てた

歴史の絵舞台を演出した直線古道

河内の国名は、淀川の「川の内の方」という意味に由来するといわれています。

 「川の内」に含まれる松原市には、大阪平野を東西に結ぶ直線古道として大津道(近世の長尾街道)が通っていました。また、その南、1.9キロほど離れて同じく直線古道の丹比(たじひ)道(近世の竹内(たけのうち)街道)も東西に走っていました。

 大津道と丹比道については、『日本書紀』の天武(てんむ)天皇元年(672年)7月条の壬申(じんしん)の乱における戦いの記述中に見えます。すなわち、7月1日、大海人皇子(おおあまのおうじ)(のちの天武天皇)方の大伴吹負(おおとものふけい)軍に属する坂本臣財(さかもとのおみたから)らは河内・大和国境の高安城を占拠しました。翌朝、財らが西方を眺めると、大津道と丹比道の両道から大友皇子(天智天皇の皇子)の近江朝廷軍が高安山めがけて押し寄せてくるのが見えたのでした。

 このことから7世紀後半にはすでに両道が存在していたことが明らかです。

 考古学的にも、近鉄河内松原駅の150メートル北側の長尾街道南側(上田2丁目)の発掘調査で、 道路側溝と考えられる幅 170センチ、深さ30センチの溝が検出されています。この溝から6世紀末から7世紀初めごろの須恵器や土師器 が出土しています。

 また、道路部分に相当する高さは、側溝の肩の高さより20センチ高くなっており、上面は平らに整地されていました。

 側溝をもつほど立派な古道でしたので、この遺構は長尾街道の前身と考えられる大津道であることがほぼ実証されたのでした。
 大津道は、堺市北三国ケ丘町の方違(ほうちがい)神社と奈良県北葛城郡当麻町長尾の長尾神社とを結ぶ道であると一般的に考えられています。市内では、府道堺・大和高田線と平行して、天美我堂-新町-高見の里-田井城-阿保-上田-西野々-一津屋を通っています。

 市役所・市民病院・商工会議所・警察署・松原郵便局など主だった官公庁は、いずれも大津道沿いにあります。大津道が、市内のメインルートであることがよくわかります。

 これに対し、竹内街道の前身とされる丹比道のルートははっきりしません。ふつう、先の方違神社で大津道と分かれ、堺市金岡神社前や羽曳野市野中寺の南側を通って、大阪府太子町・奈良県当麻町境の竹内峠に至る道だといわれています。市域では、中央環状線と平行して、岡・立部を通っています。

 しかし、歴史地理学者の足利健亮さんは、羽曳野市郡戸(こうず)の大座間池(おおざまいけ)付近から、松原に入って立部 ・岡・新堂・高見の里・新町・天美に至り、大和川の手前の阿麻美許曽(あまみこそ)神社まで西北に延びる斜向道路の存在を指摘され、これが本来の丹比道であると考えておられます。

 7世紀後半ごろまでに、大和でも南北の直線古道の上(かみ)ツ道・中(なか)ツ道・下(しも)ツ道が等間隔につくられていました。河内を通る大津道・丹比道も大和の古道とほぼ同じころ、国家によって敷設された大動脈でした。これらの計画道路は、歴史の桧舞台を演出するモニュメントだったのです。  

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