10 依網屯倉の設置

屯倉神社

依網屯倉址に建てられた
三宅の産土神の屯倉神社(三宅中4丁目)

三宅や天美にあった大王家の直轄地

 松原市北部の三宅は、阪神高速道路の出入口にあたるため、その名はよく知られています。

 三宅の地名の由来は、屯倉(みやけ)が設けられていたなごりでしょう。屯倉は、宮家・御宅などとも書き、大和王権の大王家の直営農地と考えられています。もともと、屯倉は収穫された稲を収める倉庫をさしましたが、のちそれに付属する土地(屯田(みた))やその土地の耕作民(田部(たべ))をあわせてよぶようになりました。

 屯倉の初見は『日本書紀』(以下、『紀』と表記)に大和王権初期の垂仁(すいにん)27年条に「屯倉を来目邑(くめむら)に興つ」とあり、また、景行(けいこう)57年条に「諸国に命じて、田部の屯倉を興つ」とあります。しかし、これらの記述はその起源を古くみせる創作と考えられ、一説には、大王の権力が強くなる5世紀以後の仁徳のころから屯倉が設置されたといわれています。

 大阪平野は、大和王権の直接の支配がおよぶ地域でしたから、比較的多くの屯倉が分布していました。『紀』によると、仁徳のころに茨田(まつた)屯倉(寝屋川市付近)や依網(よさみ)屯倉(松原市北部から大阪市住吉区)が見られます。また、6世紀前半の安閑(あんかん)大王の時代には摂津三嶋の竹村(たかふ)屯倉(茨木市)・河内桜井の桜井屯倉(東大阪市か富田林市)・難波(なにわ)屯倉(大阪市)・和泉の芽渟山(ちぬやま)屯倉(和泉市付近)が記されています。

 このうち、依網屯倉は地名から見て、河内国丹比郡依羅郷であった天美地区の城連寺・池内・油上(ゆかみ)・芝・我堂・堀や、同郡三宅郷の松原市北部に置かれていました。さらに、摂津国住吉郡大羅郷に含まれる大阪市住吉区我孫子(あびこ)・山之内・杉本・浅香・苅田・庭井町にも広がっていたと思われます。庭井には大依羅神社があります。
 いまも、松原に三宅の地名が残っているのは、そこに屯倉を管理する役所や収穫物を納める倉庫が建てられていたからでしょう。同地に屯倉神社が鎮座しています。同社は平安時代の天慶5年(942)に、土師氏の祖である天穂日命や菅原道真を祭神として創建されました。社名の由来は、この地が屯倉管理の中心地でしたから、その址地にちなんで屯倉神社としたと考えられます。

 『紀』の仁徳43年条に「依網屯倉の阿弭古(あびこ)が異しき鳥を捕って大王の仁徳に献上した」話を載せています。阿弭古は、依網屯倉の管理人とみてよいでしょう。

 また『紀』の皇極(こうぎょく)元年(642)条に「河内国の依網屯倉の前で翹岐(ぎょうぎ)等を召し、射猟を観せしむ」とあります。翹岐は百済(くだら)の慈義(じぎ)王の子で、皇極女帝の時に朝鮮半島から来日していました。この記事から、依網屯倉には大王家の猟場があったことがわかります。猟場址は、『日本書紀通証』(1748年発刊)に屯倉神社前の馬場池であると記しています。しかし、馬場池は埋めたてられて、三宅農協が建っており、その確証はありません。

 依網屯倉の役所や倉庫群は、まだ見つかっていません。今後の発掘調査に期待したいと思います。  

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