139 新発見された寛政9年道標

道標の画像
道標周辺地図のイラスト

保管されていた道標(岡4丁目・中高野街道と竹内街道分岐点)
「上太子」や「やまと」の行き先は、市域で初めて確認された。建立者の伊勢講と関わり、近くの岡1丁目の松原第六中南西側を流れる清堂川に架かる橋を「伊勢橋」と呼ぶことも興味深い。

岡の中高野街道と竹内街道分岐点に伊勢講が建立する

 今春、『松原市史』近現代編が刊行され、40年ほどかけてこれまでの前近現代編や史料編とあわせて全5巻が完結しました。その間、市域をくまなく調査し、新しい知見が多く得られました。しかし、今回一般に知られておらず、全く予期しなかった新発見がありました。それは、岡4丁目の岡澤將晃さん宅で見つかった中高野街道と竹内街道が分岐する場所に建てられていた道標の存在です。社寺詣りの旅人を案内したものです。
 両街道の分岐点では、岡5丁目の松原南図書館角(元位置は竹内街道をはさんだ南西角)にある伊勢神宮の参拝を目的として結成された伊勢講が寛政9年(1797)5月に建てた花崗岩のかまぼこ型角柱(高さ90cm、幅29cm、奥行24cm)が古くから知られていました。「右ひらの 大坂道」「左さやま 三日市 かうや道」「左さかい道」「寛政九丁巳年五月 いせこう中」と記しています。
 この8月、私は岡澤さん宅を訪れた折、同氏から「こんなもんが庭にありますねん」と教えられ、はじめて道標があることを知りました。石は縦に2つに割られていましたが、次のようなことがわかりました。

道標は、図書館角のものと同形式の花崗岩かまぼこ型の角柱で、寸法も文字の書体もほぼ同じでした。各面に「左ふちゐ寺 上太子 やまと道」「左ひらの 大坂道」「右かうや さやま道」「寛政九年丁巳五月 いせこう中」記されていました。ただ、「かうや」と「さやま道」の間は石が欠けており、文字あきが不自然ですので、中央に前述道標と同じく「三日市」と刻まれていた可能性もあります。
 平野方面からきた中高野街道は、図書館横を南に真っすぐ丹南にのびていますが、これは大正時代後半につくられたものです。もともとは図書館から東に曲がり、東西に走る竹内街道と100メートルほど重なって岡澤さん宅前を南に向かっていました。今も旧道が残っており、その曲り角の南東側に新発見道標が建っていたのです。伊勢講が寛政9年5月に同時に2本の道標を建てたのでした。
 2基とも高野山や狭山の中高野街道をめざしていますが、新出道標は葛井寺(藤井寺市)と聖徳太子の廟所がある叡福寺(太子町)の上太子や大和地方を銘記していますので、竹内街道を意識したものでしょう。
 昭和16年生まれの岡澤さんが少年時代の20年代、道標は同所に建っており、それを飛び箱に見立て馬飛びをしていたと話されています。ところが、30年前後ごろ道標は撤去されて側溝の蓋に転用され、その後地中に埋ずもれたようです。
 のち、長い間忘れられていましたが、平成7年に岡澤さん所有の同地で住宅建設があり、その折に再び道標が掘り出されました。それを同氏が保管されておられたのです。江戸時代後半の貴重な道標として、今後は元の位置に復元され、保存されればこれほど喜ばしいことはありません。

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