132 地域医療に貢献した井岡氏

井岡元二墓の画像
井岡理安夫妻墓の画像
井岡公保墓と井岡家累代之墓の画像
ライオン像の画像

井岡氏墓碑(新堂5丁目・新堂墓地)
井岡元二墓、井岡公保墓と井岡忠雄建立「井岡家累代之墓」、井岡理安夫妻墓。
ライオン像(大阪市天王寺区・大阪赤十字病院)
台石に「謹んで大阪赤十字病院に贈る」「元大阪赤十字病院副院長医学博士井岡忠雄遺族 1980年10月吉日」とある。

井岡元二・元喬・公保・忠雄と医家・薬屋の活動

 西除川沿いの新堂5丁目に新堂墓地があります。その無縁塔南側に江戸時代後半以降、昭和20年代まで松原村新堂に住んだ医家の井岡氏の墓石が大小十数基、みられます。融通念仏宗の浄光寺(新堂3丁目)の檀越として、明和年間(1764から71)に什物を寄進した理安夫妻など18世紀後半の宝暦・安永や寛政年間のものも残っています。その墓石群西隣に「井岡荊庵墓」がひときわ目立って建っています。
 荊庵は名を公禮、字は達夫、通称元二と名のり、荊庵とは号です。理安の子で、また天保2年(1831)、本堂再建に尽力した元喬の父でした。文政12年(1829)正月18日、75歳で生涯を閉じています。
 文政6年(1823)の『続浪華郷友録』という人物志に、井岡元二が河内の有名な医家として載っています。市域では、寛政2年(1790)の『浪華郷友録』に一津屋の名医、北山橘庵・元恭・元寧の名がみられました。元二の事績を記した墓碑銘には、北山氏の影響を受けたことも触れています。
 元二の医業は、子の元喬が受けつぎました。元喬は松原だけでなく、富田林の仲村家のかかりつけ医でもありました。酒造家の仲村家に残る「年中録」と題する幕末の天保期から安政5年(1858)にわたる家の日記に元喬の往診のことが記されています。
「年中録」によると、嘉永元年(1848)、疱瘡が流行していたこともあって、当主仲村徳兵衛に煎薬334服267匁、人参・丸薬19匁を調合しています。同3・4年や安政2年(1855)・同3年にも元喬の診察があり、妻ゆうや祖母もみています。
 この時期、井岡家は薬屋として薬の調合も行いました。同家は、現大阪市平野区の平野組という薬種仲間に属していました。元喬は安政5年2月、71歳で亡くなりますが、子の公保時代の慶応4年(1868)「薬種屋・合薬屋名前帳」に平野組所属として載っています。「名前帳」には、市域では井岡氏以外に三宅の中務瑞龍・大橋此右衛門・樋口重蔵・吉川左中、東代の森田庄兵衛・山田卯兵衛、新堂の良念寺、一津屋の北山文之進、立部の黒川謙蔵、阿保の保田仁兵衛らの名もみられます。
 公保が明治6年(1873)10月、44歳で亡くなった二代後、明治12年(1879)生まれの忠雄が当主となりました。医学博士で産婦人科医の忠雄は大正9年(1920)4月7日、「井岡家累代之墓」を建て、墓碑に同家の由来を詳しく書いています。
 忠雄は大阪赤十字病院創立の明治42年から昭和17年まで同病院に勤め、副院長にまでなりました。浄光寺前にあった井岡家は今では残っていませんが、同病院東入口には、井岡家の庭に置かれていた青銅製ライオン像が、忠雄の遺族によって寄付され、井岡家をしのぶ遺物となっています。

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