130 阿弥陀如来となった旅休

浄光寺本堂の画像
旅休墓の画像

浄光寺本堂と旅休墓(新堂3丁目)
浄光寺は、明鏡山満月院の山号と院号を持つ。旅休墓は花崗岩製。蓮華座の上に立ち、頭光もみられる。台座から光背まで180センチメートル。像高85センチメートル。上品下生の来迎印を結ぶ。

融通念仏宗を広めた松原村新堂の浄光寺

 新堂3丁目に融通念仏宗の浄光寺が建っています。前を走る道は中高野街道です。松原駅から岡の松原南小学校方面に向かうバス道を中高野街道と思っておられる方も多いと思います。この道は、大正時代に三宅方面からのルートを変え、新しく直進させたものです。本来の中高野街道は、今の松原幼稚園や松原小学校を経て、新堂の集落を通っていました。現在も、高野山などを指す江戸時代後半、天保5年(1834)の道標が浄光寺の少し北側に見られます。
 浄光寺は、鎌倉時代末期の元亨2年(1322)、大念仏寺(大阪市平野区)を総本山とする融通念仏宗を中興した法明が各地を布教して、念仏勧進道場として開いたと伝えています。しかし、道場は室町時代の永正元年(1504)10月に焼失したといわれています。
 これを、江戸時代の元和8年(1622)に再建したのが、旅休でした。和尚は、生誉上人とよばれ、もともとは浄土宗の僧侶でしたが、江戸時代の初めごろ融通念仏の教えに帰依したのでした。
 旅休が寺を守るようになって、浄光寺の名も与えられ、融通念仏宗の中本山である丹南の来迎寺(「歴史ウォーク」34)の末寺となりました。寛文6年(1666)10月8日の「河州丹南郡丹南村来迎寺末寺御改帳」には、「河州丹北郡新堂 浄光寺 生誉 茂兵衛」とあり、生誉の名と共に檀家を代表する茂兵衛の名も見られます。
 20数年後の元禄5年(1692)11月の松原村の「寺社帳」に、境内は東西四間(約7メートル)、南北拾三間半(約24メートル)とあり、本堂は阿弥陀堂とよばれ、藁葺で庇だけは瓦で葺いていました。もちろん阿弥陀如来像を本尊としています。再建以来、生誉(旅休)が住職でしたが、今では海深が務めていることも述べています。旅休は、少し前の延宝7年(1679)11月6日に亡くなっていました。60年近く浄光寺を守ってきたのでした。寺社帳は、旅休長老と敬称しています。
 現在、本堂横に石造の舟型光背を持つ阿弥陀如来立像が立っています。実は、この像が旅休の墓なのです。浮彫りされた阿弥陀如来を旅休に見たて、向かって右側には「生誉上人旅休大和尚」、左側には命日の「延宝己未十一月六日」と彫られています。ふつう、僧侶の墓は無縫塔(卵塔)とよぶ卵型が多いのですが、旅休は仏として祀られました。珍しいだけでなく、石造遺物としても貴重なものでしょう。
 山門を入った右側に「栄和地蔵尊」とよばれる石造地蔵菩薩像も祀られています。夜泣きを直すお地蔵さんとして、地元の人々に信仰され、香華が絶えません。
 今の本堂や山門は、棟札や「本堂再建寄付帳」から、天保2年(1831)に建てられたことがわかります。檀家の井岡氏らや利助(現伊藤氏)という棟梁大工が寺の維持や建設にあたるのですが、これらについては次号で紹介します。

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