127 反正山村の善法寺

反正山の地蔵堂の画像
善法寺阿弥陀如来像(明教寺安置)

反正山の地蔵堂(上田5丁目)と善法寺阿弥陀如来像(明教寺安置)
地蔵堂(中央)の右には観音堂、その左手前には二見龍王社も祀られている。
5世紀ごろ、18代反正天皇の王宮である丹比柴籬宮が当地に置かれたと伝えられることから、反正山の名の由来となった。

島泉の明教寺に安置する康雲作 本尊阿弥陀如来像

 にぎやかな河内松原駅前の中高野街道を南西へ5分も歩くと、古い家並みが残る反正山の集落が見られます。ここは上田5丁目ですが、江戸時代には松原村上田の出戸(出入口)にあたり、反正山村ともよばれていました。今も、反正山実行組合とか反正山水利組合の名称が使われています。
 町の中央に、地蔵堂などが建つ広場があります。地蔵堂は、明治末年ごろまでは北西側にあった浄土真宗本願寺派の善法寺の門前に祀られていました。しかし、善法寺は100年ほど前の火事で焼け、今では廃寺となっています。
 善法寺は、江戸時代前半の万治3年(1660)正月の「松原村宗旨改帳」(岡・松永修氏蔵)に「西本願寺下久宝寺 永正寺旦那」とあります。惣道場として、西本願寺のもと、現在の八尾市久宝寺にあった永正寺の下寺であったことがわかります。
 元禄5年(1692)11月の「松原村寺社帳」(上田・西田敏弘氏蔵)にも「浄土真宗西本願寺 久宝寺村栄正寺下 善法寺」と見られます。境内は東西6間(約11メートル)、南北6間。道場は梁行3間、桁行5間、藁葺・瓦庇でした。山門は梁行5尺(約1.5メートル)、桁行8尺、瓦で葺いていました。他に庫裏があり、梁行2間、桁行3間、藁葺・瓦庇でした。
 なお、西本願寺が所蔵する寛政4年(1792)ごろの「河内国末寺帳」は「栄正寺下反正山村 善法寺」と記し、松原村ではなく、身近な反正山村を使っています。
 善法寺が上寺とした永正寺(栄正寺)は、創建時は今の八尾市福万寺にありましたが、のち久宝寺に移ったものです。同寺は、江戸時代初期以降、同じ久宝寺にあり、中河内や南河内の寺院を支配していた顕証寺のもとで組織されていた有力集団である「河内十二門徒」(のち十二坊)の一つでした。現八尾をはじめ、東大阪・羽曳野・松原などの村々に多くの門徒を持っていました。反正山村もその一つでした。しかし、江戸時代末期ごろまでに廃寺となったようです。
 ところで、善法寺蔵の本尊や親鸞聖人・西本願寺十三世良如上人画像などは、今では永正寺廃寺後、反正山村の門徒を引き継いだ、同じ「河内十二門徒」の明教寺(羽曳野市島泉)に移されています。
私は、明教寺の不死川浄住職のご好意で本尊の阿弥陀如来像を拝見させていただいたところ、足裏のホゾ木に「河州反正山村 善法寺 康雲」と墨書されていることに気がつきました。康雲は、姓は渡辺氏。京都・岡崎に住む江戸時代前半の西本願寺所属の仏師で、各地で多くの仏像をつくっていました。明教寺には、西川村(羽曳野市恵我之荘)の旧教勝寺から移された阿弥陀如来像にも康雲銘が残されています。
 今も、反正山・上田地区の11軒のご門徒が明教寺(善法寺)を檀家寺として、信仰を続けておられます。

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