124 岸松山教専寺の歴史

教専寺の画像

教専寺(大堀3丁目)本堂は昭和44年に再建された。
山門をはさんで、右側が地蔵堂。
左側の建物は、もともと経蔵として建てられたと伝えている。

大堀の人々と歩んできた浄土真宗本願寺派の寺院

 市域北東部の大堀3丁目に、浄土真宗本願寺派の教専寺が建っています。20年ほど前、寺の近くに阪神高速道路や、西名阪・近畿・阪和自動車道が通る松原ジャンクションが完成したことから、町の様子がずい分と変わりました。それでも、本堂1階は大堀会館として地域のために利用されており、寺と人々との結びつきの強いことがわかります。
 教専寺本堂に祀られている親鸞聖人の御影像裏書に「河内国丹北郡大堀村惣道場教専寺 宝暦2年(1752)2月12日」とあること。二つに、本尊の阿弥陀如来像が江戸時代中ごろの作と考えられること。三つに、本堂裏に宝暦14年(1764)、安永9年(1780)、享和元年(1801)の年号が入った宝篋印塔の塔身や基礎石が一つに組み合わされて残っていること。
 こうした年号などから、教専寺は18世紀半ばまでには、今のような大堀の檀家寺としての形態を整えていったのでしょう。
 京都・西本願寺に、寛政4年(1792)ごろの「河内国末寺帳」が所蔵されています。龍谷大学内の本願寺史料研究所で同帳を閲覧させていただいたところ、丹北郡の項でやはり「大堀村惣道場教専寺」と書かれていました。もっとも、大堀村の家々の中には、教専寺を聞法道場として信仰しながら、摂津の慈明寺(茨木市)や光永寺(大阪市平野区)といった真宗寺院の門徒になる人々もいました。
 慈明寺は、南北朝時代に後醍醐天皇に仕えた安満了願が摂津国島上郡磐手村(高槻市)に開基したものです。江戸時代前期に現在地の島下郡下穂積村(茨木市)に移り、末寺30カ寺を有しました。
 光永寺は、戦国時代の明応5年(1496)に建てられ、寛永3年(1626)以後、西本願寺の兼帯所として平野御坊の称を賜り、末寺10カ寺を持っていたと伝えています。
 ところで、教専寺の山号は岸松山といいます。大和川が寺の北を西に流れるように付け替えられた宝永元年(1704)以降、大和川の岸を意識して名づけられたのでしょうか。山号を刻した旧本堂の平瓦が、本堂前の植え込みに保存されています。また、本堂軒下には檀家の大堀氏が明治33年(1900)10月、先祖の供養のために寄進した喚鐘が掛かっています。
 山門横には地蔵堂があり、そこには石仏が祀られています。もともとは木造地蔵菩薩が安置されていましたが、盗難に会い、今では四体の石仏が見られます。このうち、舟形の半肉彫りで定印を結んだ阿弥陀如来坐像や、やはり半肉彫りで宝珠と錫杖を持つ地蔵菩薩立像は鎌倉時代後半から南北朝時代にかけてのものです。地蔵に手向ける香華石には、幕末の文久2年(1862)の銘があります。
 なお、現在の恵我小学校は明治7年(1874)、教専寺に設けられた大堀小学校をルーツとすることも忘れてはなりません。

このページに関するお問い合わせ先

松原市 市長公室 秘書課
〒580-8501
大阪府松原市阿保1丁目1番1号
電話:072-334-1550(代表)