123 松原の中の泊園書院

浦野氏墓碑の画像
辻氏墓碑の画像

左:浦野氏墓碑(天美北7丁目、城連寺・池内共同墓地)
右:辻氏墓碑(三宅東3丁目、三宅・別所霊園)
浦野氏墓碑は、墓地事務所前にあり、先祖代々墓の北側に供養されている。
辻氏墓碑は、墓地事務所の手前を右(東)に行った辻氏代々の墓石と並んで、西南側に祀られている。

浦野氏・辻氏墓碑に見る藤沢南岳・黄坡の撰と書

先月、関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センターで「大阪南部に残る泊園書院藤沢南岳の揮毫と碑文」というテーマでお話しさせていただきました。現大阪市中央区にあった漢学塾・泊園書院を主宰していた、明治・大正期の著名な儒学者の藤沢南岳や長男黄鵠の碑文や書が市域にかなり残っていたからです。
 「歴史ウォーク」でも別所の熱田神社社号標石(Vol38)、丹南の松川長右衛門碑(Vol89)、別所の中山家蔵(Vol100)、阿保の保田佐久三像(Vol102)、田井城の今田家蔵(Vol119)でそれらを取りあげてきました。
 この講演を機会に、教育委員会の岡本武司さんや室山京子さんらにご協力をいただき、あらためて市内の泊園書院関係の調査を行いました。その結果、新たに南岳の撰や二男黄坡の書による2基の墓碑が見つかったのです。
 一つは、城連寺・池内共同墓地(天美北)にある「浦野君考妣墓誌銘」です。
 同碑は、天美村池内(天美東)の浦野澄夫が大正7年(1918)12月、母志希の徳を讃え、家の事歴を記して建立したものです。志希は、明治16年(1883)に40歳で亡くなりました。のち、夫の八三郎が大正7年10月に84歳で没したことから、子の澄夫が南岳に撰文を頼んだのです。正面・左側面に銘がびっしりと書かれ、「南岳 藤澤恒撰」とあります。恒が本名で、南岳は号です。右側面には「繹 誠清 尼妙教 塋域」とあり、背面には「大正七年十二月 男不肖澄夫建之」と記しています。澄夫は、のちに天美村村長をつとめました。
 二つ目は、三宅・別所霊園(三宅東)に建つ辻直太郎墓碑です。三宅の辻直太郎は、幕末の元治元年(1864)の生まれ。明治時代半ばから、別所の中山潔と共に泊園書院の塾生となり、南岳の教えをうけました。一方で、剣を千葉周作らと並び称された幕末の三剣士の一人、桃井直正(当時、羽曳野市誉田八幡宮神官)に師事しています。のち三宅村村長に就任しますが、南岳が大正3年(1914)、73歳の時に直太郎に為書した漢詩が今も残っています。
 墓碑は、正面に「正道院直種日徳居士 直道院妙種日正大姉」、右側面に「昭和九年三月建之」、左側面に「従七位勲六等功五級藤澤章次郎書」とあります。直太郎夫婦の戒名を南岳・黄鵠亡き後、泊園書院を支えてきた儒学者の藤沢黄坡、本名章次郎が昭和9年(1934)に書いたのでした。
 南岳・黄鵠・黄坡の碑文や書は、塾の所在した大阪市内外と藤沢家の出身地の香川県高松付近にまとまって残されています。その中でも、市域にその数が多いのは、直太郎の仲人で、黄鵠の長女雅子が中山潔の弟である源次郎(のち分家)に嫁ぐなど、師弟関係を越えた深い絆があったからです。南岳らは別所や三宅をたびたび訪れていますが、頼まれれば快く揮毫や碑文をしたためたことでしょう。

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