178 泉福寺の文化財

泉福寺本堂(岡5丁目)の写真

泉福寺本堂(岡5丁目)

手前の欄間ごしに本尊の阿弥陀如来像が祀られる。その右側には、天保(てんぽう)年間(1830~43)につくられた宮殿(くうでん)に琢如の裏書のある親鸞絵像がおさめられている。                

松原村岡の真宗大谷派本尊・絵像・欄間・地蔵像

 中高野街道から中筋を西に入った岡5丁目に、東本願寺を本山とする真宗大谷派の泉福寺(せんぷくじ)が建っています。寺伝によると、室町時代末期の弘治(こうじ)元年(1555)9月27日に亡くなった頓法(とんぽう)を開基としています。

 江戸時代前半、東本願寺が末寺へ免許下付(授与)した「申物帳(もうしものちょう)」とよぶ記録集がありますが、それには寛文(かんぶん)2年(1662)7月8日、「河州丹北郡松原庄岡村 泉福寺 良春」に「御開山様」、すなわち当時の7代住職良春(りょうしゅん)に宗祖の親鸞(しんらん)聖人の絵像が与えられたと記しています。さらに、寛文10年(1670)3月5日には、聖徳太子など「太子七高祖」の絵像も下されています。今も本堂には、これらの絵像が掛けられ、下付した東本願寺14代琢如(たくにょ)の花押(書判)を持つ裏書が見られます。

 このことから、寛文期ごろに泉福寺がこれまでの道場から、今のような寺院としての体裁を整えていったことがわかります。

 「申物帳」に本尊の木仏の記載がありませんが、現在、本尊として祀られている阿弥陀如来立像は、鎌倉時代様式を持つ写実的な一木造りの古仏です。東本願寺から下付されたのではなく、江戸時代以前に他寺で祀られていた阿弥陀仏が泉福寺に迎えられたのでしょう。

 泉福寺は、元禄(げんろく)5年(1692)11月に書かれた岡・新堂・上田から成る松原村の『寺社帳』に、「浄土真宗東本願寺堺御坊末寺」とあって、「境内東西拾間、南北拾三間半」と記されています。また、本堂にあたる道場や庫裏(くり)・山門はいずれも瓦葺とあり、これは慶長(けいちょう)20年(1615)の大阪夏の陣によって、松原地方が戦場化して焼失したのち、寛永(かんえい)年間(1624-43)に再建されたものです。この時の住職は、八代良玄(りょうげん)でした。

 元禄期、泉福寺は現在の殿馬場(とのばば)中学校(堺市堺区)近くにある難波別院堺支院の末寺でした。松原村では、円正寺(えんちょうじ)(岡)・西蓮寺(さいれんじ)(出岡)・願正寺(がんしょうじ)(上田)も堺御坊の末寺になっていました。

 寛永年間に再建された本堂は、11代住職幸存(こうぞん)の文化7年(1810)に再び建て替えられました。今見る本堂がそれですが、この時、檀家として特に力を入れたのが岡村の山田定右衛門、仁左右衛門親子でした。定右衛門は、その後の文政2年(1819)にも石灯籠を寄進し、今も本堂前に建てられています。

 本堂に上がると、内陣と外陣を分ける欄間(らんま)が目に入り、鳳凰をあしらった見事な彫り物が施されています。その下部裏側に墨書銘があり、「寄進 貞享三年□□□ 施主田守十兵衛」と読めます。文化期の本堂ですが、貞享(じょうきょう)3年(1686)に使われていた古材の欄間をはめこんだのです。施主の田守氏は岡村の分村である出岡(現・岡)の檀家でした。

 泉福寺で忘れてはならない文化財が、山門前の地蔵堂にもあります。堂内には、三体の石仏が祀られていますが、このうち左右二体の地蔵菩薩像は通例の左手に宝珠、右手に錫杖を持つお姿です。特に、左側の像の光背には「正徳三巳五月三日」と刻んでおり、正徳3年(1713)に童子のためにつくられました。毎年8月24日の地蔵盆には、本堂に移され、地域の人々の信仰を集めているのです。

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