179 岡の真宗大谷派・円正寺

円正寺本堂(岡5丁目)の写真
本尊録(円正寺蔵)の写真
円正寺墓(堺市美原区)の写真

円正寺(岡5丁目)
真ん中は『本尊録』(円正寺蔵)。
「小山円正寺住物也」とある。左は円正寺墓(堺市美原区大保の浄寺墓地)。
「円正寺墓」の下の中台に「寺子中」、中台向かって右面に「文政五年壬午五月日建之」、左面に「松原村岡  信道山」とある。           

三河・源徳寺、正善の入寺 小土山から信道山へ変更

 岡5丁目の中高野街道を西に入った北筋に、東本願寺を本山とする真宗大谷派の信道山円正寺(しんどうさんえんしょうじ)(「歴史ウォーク」55)が建っています。もともとは、現羽曳野市南恵我之荘にまたがる立部や西大塚地区の小土(こづち)墓地東側に創建されていました。

 奈良時代、行基(ぎょうき)作の本尊を祀ったという伝承を持ち、小土山向福寺(こづちさんこうふくじ)とよばれました。寺推定地からは、室町時代、15世紀から江戸時代前半の遺構や遺物が見つかっています。

 延宝(えんぽう)5年(1677)10月7日に調べられた円正寺の『本尊録』によると、火災に遭った同寺を江戸時代前半の寛永(かんえい)年間(1624-43)に、住職の正善(しょうぜん)が現在地の松原村岡に移して再建し、小山の山号はそのままに円正寺と号したと伝えています。

 岡には、この頃、同じ真宗大谷派の泉福寺(せんぷくじ)(「歴史ウォーク」178)が竹内街道(茶屋筋)よりの中筋に建っていましたので、浄土真宗寺院が近接するようになったのです。火災は、慶長(けいちょう)20年(1615)の徳川方と豊臣方との大阪夏の陣によって戦場となったからでしょう。現在、円正寺本堂に祀られている本尊の阿弥陀如来立像には焼けた痕跡が見られますが、これはこの時の被害によるかもしれません。

 本山から末寺に免許下付された記録帳である『申物帳(もうしものちょう)』に、のち、円正寺に寛文(かんぶん)2年(1662)2月2日、東本願寺十三世宣如(せんにょ)の絵像が下されたことが見られます。また、同3年6月10日に「御開山様」の親鸞(しんらん)聖人絵像が下され、同6年12月15日にも、聖徳太子などの「太子七高祖」が下されました。

 その後も、円正寺は元禄(げんろく)5年(1692)11月の松原村の『寺社帳』に「東本願寺堺御坊末寺」とあり、境内は東西六間、南北拾三間二尺でした。本堂や庫裏(くり)が藁葺(わらぶき)で、庇(ひさし)だけが瓦葺であること、山門は瓦葺であることも記しています。

 先の『本尊録』は、寺が小土から岡に移った寛永年間に正善が中興初代住職となった後、正月を経て、2代正善が延宝5年に調べたものを元禄5年11月に、時の住職の清岸(せいがん)が写したものです。

 特に、興味深いのは2代正善が三河(愛知県)の吉良(きら)(現西尾市吉良町)にある同じ真宗大谷派の源徳寺の僧で、同寺から円正寺に入寺したことです。

 山号にこだわりますが、『本尊録』が書かれた延宝や元禄期の17世紀末には、まだ、小山の山号でした。しかし、天明(てんめい)8年(1788)の過去帳には「信道山円正寺  所持」とあり、18世紀後半に、今の信道山の山号に変わっています。実は、信道山こそ正善の前住寺院である源徳寺の山号でした。

 余談ですが、源徳寺は「忠臣蔵」で知られる吉良上野介(きらこうづけのすけ)の領地でした。また、幕末の慶応2年(1866)に伊勢神戸(三重県)の荒神山(こうじんやま)の血闘で亡くなった任侠の吉良仁吉の墓があることでも有名です。仁吉墓は、清水次郎長が仁吉の一周忌に菩提寺の源徳寺に建てたものです。

 なお、円正寺の寺子さんたちは、文政(ぶんせい)5年(1822)5月、円正寺歴代住職の墓を岡の共同墓地である浄土寺墓地(堺市美原区)に建てました。「円正寺墓  寺子中」とあります。檀那寺への絆を深める墓石といえるでしょう。

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