173 肥下恒夫が発行した『コギト』

コギト創刊号の写真
コギト38号の写真
コギト146号の写真

『コギト』表紙(東京・コギト発行所) 左上から創刊号(昭和7年3月、定価30銭)。真っ白い表紙に文字だけのシンプルさである。右は38号(昭和10年7月、定価30銭)。この年は、西洋の美術から表紙を選ぶようになった(デューラー)。下は最終の146号(昭和19年9月)。用紙不足から8頁になり、非売品となった。表紙は棟方志功の「鴛鴦 鳥飛び潜る」。

戦前、文芸同人誌で脚光 戦後、上田で農業に精励

 戦前、東京で『コギト』と呼ばれ、一世を風びした文芸同人雑誌がありました。昭和七年(一九三二)三月に旧制大阪高校出身の東京帝国大学生を中心に創刊され、昭和十九年(一九四四)九月まで一四六号をかぞえました。

 『コギト』の名は、ドイツの哲学者デカルトの「我思ふ故に我あり(cogito ergo sum)」から付けられています。同人には、文芸批評家として有名な保田與重郎や、詩人の伊東静雄・田中克巳らがおり、寄稿者には棟方志功、萩原朔太郎、檀一雄、立原道造、亀井勝一郎ら、そうそうたる文化人が名を連ねていました。この時代の日本浪漫派文学を象徴する文芸雑誌の一つといえるでしょう。

 『コギト』は、東京都中野区大和町を発行所としていました。創刊以来、肥下恒夫が同人として詩や小説を書きながら、編集発行人になり、献身的に全号にわたって、雑務を行った妻ミツルと共に担ったのです。

 大和町は、肥下の東京時代の自宅ですが、もともと、その出身地は今の堺市堺区北旅籠町東一丁でした。肥下家は、江戸時代以来、堺の町年寄として知られています。恒夫の養父である肥下徳十郎は、明治三十年(一八九七)に仏典を求めて苦難の末、チベットに渡った北旅籠町西に住む無二の親友の河口慧海に多額の資金援助を行った人物でした。

 恒夫は、明治四十二年(一九〇九)五月、中河内郡瓜破村(現大阪市平野区)の全田家に生まれ、大正二年(一九一三)に父方の大叔父である徳十郎の嗣子となりました。徳十郎は大正四年、五十歳で亡くなりますが、恒夫が終始、『コギト』を編集・発刊できたのも、肥下家の財力を基盤としたことによります。

 しかし、『コギト』は終戦一年前、用紙事情の悪化に伴い、終刊となりました。恒夫は翌二十年三月、応召されますが、戦後すぐ復員し、生家の全田家に戻り、大阪での生活を始めたのです。

 ところが、間もなくして、恒夫は農地改革に伴う農地整理のため、四町五反の土地を所有する松原町上田に移り住むことになります。最初は、今の松原駅南側、中高野街道に沿った上田五丁目に間借りし、やがて松原駅北側の上田二丁目に住まいを構えたのです。

 恒夫は松原に落ち着いてから、上田の田畑で米や野菜だけでなく、菊などの生花もつくり出荷するなど、晴耕雨読の日を送ります。

 農業に精を出すようになって、恒夫は農事日誌とも言える日記を書くようになりました。昭和二十三年(一九四八)一月から三十七年(一九六二)三月までのものが現存し、作物や肥料の種類、農作業の留意点など詳細なメモを残しています。

 昭和二十三年八月十七日には、「来し方も はた行くすゑも 忘れはてて 吾が田を見れば 心和みぬ」や「世のうつり ひやゝかにのみ 見果てむと 百姓われは あに思はむや」と耕作の喜びを詠んでいます。

 この当時、これからの日本の運命を左右するのは、農村にかかっているといって過言ではないとも述べています。

 戦後、土に生きた恒夫でしたが、昭和三十七年三月、五十二歳で上田の自宅で亡くなりました。また、同い年の恒夫を助け『コギト』同人たちと間近に接したミツルも、今年九月、百一歳の天寿を全うして旅立ったのです。