174 幣原喜重郎書の「標碑」

中野恒治から肥下恒夫に宛てた書簡の写真
中野恒治から肥下恒夫に宛てた書簡の写真
肥下の碑文原稿の写真
浅田義守「標碑」の写真

中野恒治から肥下恒夫に宛てた書簡(上)・肥下の碑文原稿(下)と浅田義守「標碑」(新堂1丁目) 中野の書簡には、「碑文の面積は横3尺、縦2尺5寸」と記されている。

中野恒治が肥下恒夫に依頼 松原町長・浅田義守記念碑

 昭和二十三年(一九四八)五月一日の二時頃、肥下恒夫(「歴史ウォーク」173)が耕していた上田の畑に、新堂の中野恒治(明治四十一~昭和四十八年)が訪れました。用件は、時の松原町長であった新堂出身の浅田義守の記念碑を建てたいので、碑文を書いてくれないかとの依頼でした。

 中野は、四日夜八時に、再び碑文の内容を相談するため、松原駅北側にあった肥下宅を訪問しました。翌五日の一時半には、肥下の実父である瓜破(大阪市平野区)の全田直一が訪れたので、「昨夜作った松原町長の碑文を校閲」してもらっています。そして、六日、中野に原稿を渡したのでした。

 上の出来事は、文芸雑誌「コギト」を発刊し、戦前の日本浪漫派文学を世に問うた肥下の日記に拠るものです。

 中野は、旧制堺中学(現三国丘高校)から天王寺師範学校(現大阪教育大学)を出て、美原の丹南小学校などで教鞭をとっていました。その後、昭和二十三年三月一日には松原町助役に就任し、浅田町長のもとで、町政の一端を担ったのでした。

 肥下も堺中学の出身で、中野と同級生でしたので、旧知の間柄でした。同じクラスには阿保・西徳寺(「歴史ウォーク」156)の千賀武雄もいました。

 中野は、浅田の略歴を便箋に書いて肥下に届け、それをもとに、肥下は四〇〇字詰原稿用紙一枚強にまとめて、碑文がつくられたのです。

 明治三十一年(一八九八)生まれの浅田が昭和二十二年四月に行われた戦後初めての公選で、町長選挙に当選したこと。また、同年夏の旱魃の際、新堂の田畑を灌漑していた聖堂池(現松原六中の北側)の水が涸れたので、浅田らが池畔に井戸を掘り、田畑に水を潤したことなどを記しています。

 石碑は、依頼から三か月経った八月に完成しました。新堂公民館前の住吉街道を国道三〇九号線に進み、道が二手に別れる所に「昭和六年春架 観音橋」の石碑があり、その西側に同碑が「浅田義守氏之碑」と並んで建っています。表に「標碑」とあって、「昭和二十三年八月一日 幣原喜重郎書」と記しています。裏には「百姓中建之」とあります。新堂の農家の人々が発起人となり、幣原喜重郎が書いたのです。ただし、撰文した肥下の名は刻まれていません。

 ここで注目されるのは、肥下の撰を内閣総理大臣をつとめた幣原が書いていることでしょう。

 幣原は今の門真市出身で、戦前は外務大臣として、「協調外交」を展開し、戦後は昭和二十年十月に四十四代内閣総理大臣に選ばれ、「天皇の人間宣言草案」や「日本国憲法改正草案要綱」を発表するなど、日本の民主化に尽力しました。

 翌二十一年四月、幣原は首相を辞任し、碑文建立時は日本民主党を脱党したばかりでした。肥下の日記や、中野から肥下宛の書簡には幣原のことに触れていませんので、別ルートで頼まれたのでしょう。

 歴史に名をとどめた幣原書の金石文は珍しいことから、同碑は当時の幣原の動向を考えるうえで、興味ある資料といえます。