172 新堂の「中野好松」記念碑

「中野好松」碑の写真

「中野好松」碑(新堂3丁目) 現在は中高野街道沿いに面しているが、もともとは母屋北側につくられた庭の築山に南面して建てられていた。

松原村会議員として21年間 「新堂総中」が明治45年建立

 新堂の集落内を中高野街道が走っています。この古道が新堂公民館前を通る住吉街道と交差する新堂三丁目には、天保五年(一八三四)の高野山を案内する道標が建っています。

 道標のすぐ北側には、中野敬さん宅があり、庭ごしに自然石が見られます。表面に中野好松翁「新堂総中 寄附」、側面に「釋宗説 明治四十五年四月」と刻んでいます。

 新堂の人々によって顕彰された中野好松は、文久元年(一八六一)七月三十日、丹北郡新堂村の同家で生まれました。好松は、現在の阿保・西大塚・西野々・上田・新堂・立部・岡・高見の里・田井城から成る松原村の村会議員を二十一年間にわたって務めた人物です。

 わが国では、明治二十二年(一八八九)四月に町村制が施行され、当地でも丹北郡松原村が誕生しました。明治三十一年(一八九八)六月には、郡制統合のため、松原村は中河内郡に含まれるようになりました。

 「松原村吏員及村会議員組合会議員名簿 松原村役場」(松原市蔵)は、明治二十二年の初選挙以来、大正期までの村長・助役・収入役・書記・学務委員・村会議員を記したものですが、これによると、好松の事歴は次のようにあります。

 明治二十二年四月二十八日に行われた第一回松原村選挙で当選し(定員六名)、二十五年四月十三日の半数改選で退任するまで、三年間の任期を務めました。そして、翌十四日に行われた改選で再選され、三十一年四月十三日の任期満限までの六年間に及びました。

 続く、三十一年四月二十一日の選挙で、三たび選ばれ、三十七年四月二十日の任期満限まで六年間続けました。さらに、翌二十一日の選挙でも当選し、四十三年四月二十日の満期まで務めたのでした。

 好松は、議員になる前から教育に熱心で、同じ新堂出身で村会議員となる中野駒蔵らと図って、上田にあった松原小学校を校区(上田・新堂・立部・岡)の中央にあたる新堂に移し、新堂小学校と改名しました(明治二十年四月)。融通念仏宗・浄光寺の東北側、中高野街道沿いの地です。そして、学校に行けない子供たちのために、自宅を開放して、手習いや習字なども教えました。

 また、地域のつながりを図るため、近くの檀那寺である真宗大谷派の良念寺に大太鼓を寄進し、時報やお知らせの合図に利用されました。同時に、やや小ぶりのものを自宅に備えつけ、「中野好松 村主」と書かれた太鼓が今も中野さん宅に架けられています。

 好松は、議員を退いた一年余後の明治四十四年(一九一一)六月、五十歳で亡くなりましたが、地域の人々によって、翌四十五年四月に顕彰碑が自宅に建てられたのです。

 なお、好松が村会議員であった明治二十二年から四十二年の二十年間は、同郷新堂の芝池経太郎(弘化四年十月十五日生)が初代村長に就任以来、連続五期にわたって務めていました。

 芝池は四十二年八月に亡くなりますが、好松ら松原村議員は、長きにわたる芝池村長の功績をたたえ、翌四十三年九月二十日、新堂墓地(新堂五丁目)に建てられた経太郎の墓の台石に「松原村」の名を刻むとともに、墓石にも「村会議建碑」の銘を入れ、碑文をしたためています。