170 穴織・呉織を祀る田坐神社

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「田坐神社の事付 蚕を飼事」(N家蔵)

田坐神社拝殿には、祭神の一人、八幡大神(応神天皇)にちなみ、生まれたばかりの応神天皇(母は神功皇后)を抱く、皇后の忠臣竹内宿禰の大絵馬も奉納されている(田坐神社蔵)

わが国初の絹糸生産の地 田井城の由緒を語る文書

 田井城五丁目に鎮座する田坐(たざ)神社は、由緒ある延喜式内社(えんぎしきないしゃ)として知られています(「歴史ウォーク」20)。祭神は八幡大神(応神天皇)や、地元の豪族である依網宿禰(よさみのすくね)、さらには穴織(あなはとり)・呉織(くれはとり)という織女を祀ると伝えられています。とくに、織女が祀られていることは興味深いことです。

 『日本書紀』によると、中国の呉王は、四世紀後半、応神天皇の三十七年に呉織や穴織らの縫工女を与えたと記されています。

 五世紀後半、雄略天皇の十四年にも、呉の国から漢織や呉織らが来て、住吉津(大阪市住吉区)に泊まり、磯歯津路を通って呉坂を経て、飛鳥の檜隈(奈良県明日香村)に住んだとあります。

 磯歯津路とは、現在の住吉大社から東に向かい、長居公園通りに重なる、のちの住吉街道と考えられ、呉坂は、平野区喜連の地であると推測されています。

 ところで、田井城と織女の伝承は、江戸時代の「田井城村初り」「田坐神社の事付 蚕を飼事」と名づけられた地元の文書に見られます。

 文書が書かれた時期や、だれがまとめたかは記されていませんが、江戸時代末期ごろに田井城村のN家当主の角次郎(雅号・花隣)が残したようです。八枚にわたって綴じられており、田坐神社の祭神から書きおこし、田井城村の始まりや地名の由来を織女との移住にからめて述べています。

 文書によると、織女が田井城に来たあら筋は、次のようです。

 「呉織・穴織は住吉の長狭(ながお)の浦より磯歯津路を通って、住道村(東住吉区矢田)から呉村(喜連)を経て、丹北郡田坐の地に向かいました。

 その時、織女は多くの桑の木を田坐の地に植えて蚕を飼い、絹の糸をつくったのです。この頃、依網宿禰が田井城に勢力を持っていましたので、朝廷では依網氏に蚕生産を管理させました。

 やがて、応神天皇は亡くなりますが、次の仁徳天皇は田坐に来て綾織を奨励したといいます。仁徳天皇が行幸した仮宮のいわれから、田坐の名ができたと伝えています。以後、代々の天皇も田坐の地で綾絹を織らせたのでした。

 ところが、六世紀半ば、欽明天皇がミヤコである磯城金刺宮(しきのかなさしのみや)(桜井市)に綾絹生産の場を移したことから、田坐での操業は終わりました。しかし、田井城からわが国で桑の木をつくって蚕の虫を飼い、絹糸を製することが始まったのです。」

 この文章の存在は以前から知られていましたが、N家が田井城から移られたため、長い間、文書の行方は不明でした。しかし、今年は住吉大社ご鎮座一八〇〇年にあたることから、住吉と河内との伝承資料の一つとして探していたおり、N家と連絡が取れたのです。

 原本をお借りして、読んでみると、歴史上の考察は必要ですが、田井城村とその氏神の田坐神社を養蚕発祥の地として、後世の人々に伝えようとする気持ちが強く表れていました。松原ブランドをめざそうとした先人の意気ごみが、ひしひしと伝わってくるのです。