181 歴史街道としての竹内街道

竹内街道石碑(岡5丁目)の写真

竹内街道の石碑(岡5丁目)
本年3月、松原市は街道沿いの岡公園(増池跡)に記念碑を建立した。                

最古の官道から江戸・明治・大正時代の信仰・商業の道

 岡5丁目に建つ岡公民館は、昭和58年に増池の西半分を利用してつくられたものです。また、池の東側は埋めたてられ、岡公園になりました。それ以前、道をはさんだ南側にも、昭和48年まで新池が水をたたえていましたが、今では宅地化されています。

 この二つの池の間を東西に走っている道が竹内(たけのうち)街道で、わが国の古道の一つとして有名です(「歴史ウォーク」11)。

 竹内街道は、7世紀には設置されていたらしく、当時は丹比道(たじひみち)とよばれていたとも考えられています。堺市堺区の大小路(おおしょうじ)から東南に向かい、北区の金岡(かなおか)神社付近で本市天美西の西端を南北に走る難波大道(なにわだいどう)と交差します。やがて、西除川を渡ると市域に至ります。岡の町並みを進み、立部の南部を横切り、羽曳野市古市を経て、太子町二上山の南で竹内峠を越えて大和に入ります。葛城市(かつらぎし)(旧当麻町(たいまちょう))の長尾神社の北側で、大和の古道である横大路(よこおおじ)と接続したようです。

 ただ、竹内街道は「最古の官道」といわれて、古道のイメージが強いのですが、今のところ、市域では古代にさかのぼる道路遺構や遺物は検出されていません。

 江戸時代以降、竹内街道をはさんで新池・増池が見られましたが、「新」や「増」という池名から、江戸時代半ばに新しく二つの池が掘られたのでしょう。宝永(ほうえい)2年(1705)6月の『河内国丹北(たんぼく)郡松原村明細帳』に「新池  長六拾三間、横五拾六間三尺」「今池  長三拾五間、横六間」とあります。今池は増池のことで、もともと岡の田畑を潤していた菅池(堺市美原区大保(だいぼ)、「歴史ウォーク」109)だけでは水が不足していったことがわかります。

 同時に、古道も人々の往来の増加と共に整備されていきました。

 古くから、岡では南北に走る中高野(なかこうや)街道を起点に、西に入る道を北から円正寺(えんしょうじ)前を北筋、泉福寺(せんぷくじ)前を中筋といい、竹内街道を茶屋筋とよんでいました(「歴史ウォーク」179・180)。

 竹内街道が茶屋筋とよばれるわけは大阪から中高野街道を通って狭山や高野山(和歌山県)に行く人々や、堺から竹内街道を利用して葛井寺(ふじいでら)・道明寺(どうみょうじ)(藤井寺市)や聖徳太子の墓のある上ノ太子(かみのたいし)(太子町)、遠くは伊勢神宮(三重県)にお参りする旅人や商人のための茶屋や宿屋が両道の交差するあたりに建っていたからです。

 明治時代には、小野屋・柳屋・かごや・月之屋・丸万・太刀屋など12軒もの店があり、松原茶屋とよばれたそうです。大正3年(1914)7月に開店した更池(さらいけ)銀行(のち、三和銀行へ)松原支店も、現松原南図書館の場所にあり、モダンな大正建築として異彩をはなっていました。

 しかし、近鉄電車が大正12年(1923)に阿部野橋から河内松原を経て道明寺駅方面と結ばれたことから、徐々に街道の往来は減っていきました。松原南図書館の南側に最後まで残っていた料理旅館の小野屋も、5年ほど前に取り壊されました。

 以前は府道だった竹内街道は、今では市道となっています。都市整備部道路課は、平成22・23年度に道路改良工事を行い、あわせて歴史街道としての竹内街道を広く知ってもらえるよう、立派な記念碑を建てています(平成24年3月)。

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