187 来迎寺本堂修復の三枚の棟札

高木正次が戦利品とした真田幸村の手桶と杓

高木正次が戦利品とした真田幸村の手桶と杓
来迎寺奥殿に保管されている(来迎寺蔵)。

明治33年の棟札の写真

明治33年の棟札

元文2年の棟札の写真

元文2年の棟札

承応2年の棟札の写真

承応2年の棟札

承応2年札は、松原市域の棟札としては現存最古のものである(来迎寺蔵)。

丹南藩主高木氏が代々、保護 承応二、元文二、明治三十三年

 融通念仏宗(ゆうづうねんぶつしゅう)の来迎寺(らいごうじ)(丹南(たんなん)3丁目)は、江戸時代には本山の大念仏寺(だいねんぶつじ)(大阪市平野区)のもと、中本山という格式を持っていました。

 その来迎寺の東側に、元和(げんな)9年(1623)、高木氏が丹南藩一万石の大名として、陣屋を置き、来迎寺を菩提寺としたのです。このため、来迎寺本堂には、歴代丹南藩主の位牌や、墓地には初代高木正次(まさつぐ)や11代高木正明(まさあき)の五輪塔が祀られています。他にも、徳川方の正次が慶長15年(1615)の大坂夏の陣で、豊臣方の真田幸村と戦い、戦利品として持ち帰った真田家の家紋である六文銭の入った手桶と杓が来迎寺に伝えられています(「歴史ウォーク」34、61から65)。

 最近、来迎寺で本堂再建の来歴を記した三枚の棟札(むなふだ)があることがわかり、私はそれらを塩野則行(そくぎょう)方丈から見せていただきました。

 まず、明治33年(1900)の「奉営  本堂裏屋根」を取りあげます。表には聖武(しょうむ)天皇が奈良時代の天平(てんぴょう)年間(729年から748年)に創建し、平安時代や鎌倉時代南北朝期に再興の後、本堂について「現存本堂ハ中興八世良清上人  正保四年  高木主水正正次ノ助力ヲ受  及且家勧誘シテ再建ス」とあります。また、「明治三拾三年営繕ス  大願主高木正善公兼惣壇中一千五百余戸」「作事  真福寺白井喜平」「現住沙門義歓」の記述も見られます。

 明治の棟札には、現本堂は正次の協力で良清の代の正保4年(1647)に再建されましたが、明治33年に最後の丹南藩主(12代)である高木正担(まさかつ)の後を継いだ高木正善が修理したとあります。

 明治に入って、藩は無くなりましたが、高木家当主の正善は、江戸時代と変わらず、来迎寺を保護したのです。当時の住職は義歓で、隣村、真福寺(堺市美原区)の白井喜平が頭(かしら)となって工事にあたりました。なお、棟札裏面に、「大工小池錬次」とあります。

 次に示す棟札は、正保4年と記述された再建に関わるものです。表面に「奉造立拾箇郷御堂三別時中并門徒衆中  敬白」とあり、左右に「清水村良清西堂御代  棟梁松川長右衛門重永」「承応二癸巳暦  八月吉祥日」「當御地頭高木主水正」「大坂大工  大和国藤原朝臣堀内長兵衛政信」と見られます。

 来迎寺は、江戸時代に「河州十箇郷辻本別寺諸仏山護国院来迎寺」と呼ばれていました。この頃の住職、良清(りょうせい)は清水村(松原市南新町)の人で、陣屋に接する丹南村郷士の松川長右衛門が棟梁となり、大坂の大工であった大和(奈良県)の堀内長兵衛が普請したとあります。

 ここで問題なのは、明治棟札の正保4年と棟札の書かれた承応2年(1653)の時期です。

 実は正次は寛永(かんえい)7年(1630)に亡くなっており、正保や承応年間の時の藩主は三代高木正弘でした。歴代の高木氏は、主水正を名乗り、正弘時代の正保4年に本堂再建に着工し、6年後の承応2年に完成したとみるのがよいでしょう。明治棟札は、初代正次の遺徳を讃えて、名を残したと推測されます。

 三つめの棟札は、「奉再建拾箇郷本山本堂一宇皆今満足  徒中敬白」とあり、左右に「元文二龍次丁巳八月吉祥日」「高木主水正領河内丹南村来迎寺十世太純代」と記されています。また、下段には、「棟梁丹南村  山本六兵衛」「手伝新堂村  伊藤半左衛門  同新堂村  村田儀右衛門」とあります。

 元文2年(1732)は、6代藩主高木正陳(まさのぶ)の時で、太純(たいじゅん)のもと、地元丹南の山本六兵衛が棟梁となって修復が行われ、大工村で知られる新堂村(松原市)の伊藤半左衛門や村田儀右衛門が手伝ったのでした。

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