188 来迎寺に伝わる丹南藩の屏風

葆光筆の花鳥図屏風の写真
葆光の落款の写真

葆光筆の花鳥図屏風(丹南3丁目・来迎寺蔵)
右は葆光の落款。
パネル1枚1枚を「扇」(右より第一扇)とよび、これを数える場合の単位を「曲」という。
これら2枚がつながれば二曲である。
それがつながったものを一隻とよび、これが対になると一双となる。  

大坂の狩野派画家・葆光の 江戸中期、花鳥画の二枚折

 丹南(たんなん)藩主高木氏が来迎寺(らいごうじ)(融通念仏宗(ゆうづうねんぶつしゅう)・丹南3丁目)を菩提寺としたことから、明治時代に藩が無くなった後、居所であった陣屋に置かれていた屏風や調度品の一部が寺に移されたようです。

 私は昨年来、来迎寺の塩野則行方丈のご厚意で、市域最古となる承応(じょうおう)2年(1652)の本堂再建の棟札(むなふだ)などを調査させていただき、高木氏の関与も確認することができました(「歴史ウォーク」187)。その折、奥殿に飾られている屏風が陣屋の書院にあったものを寺に移したと伝わっていましたので、見せていただきました。

 本屏風は、花鳥図の二枚折屏風(二曲一隻)で、「法眼葆光玄々叟筆(ほうげんほこうげんげんそうひつ)」の落款を持っていました。葆光は葆光斎や保光斎の号も使い、本名は田島泰寛(たじまたいかん)といいます。生没年ははっきりしませんが、江戸時代中期に活躍した大坂の画家です。

 葆光は、法眼という位に叙せられ、花鳥図や山水図を得意としていました。大坂の著名な狩野(かのう)派画家であった吉村周山(よしむらしゅうざん)(元禄13年・1700年ー安永2年・1773年)の門人で、師と同じく大坂・島之内の油町(現大阪市中央区)に居住していました。

 葆光が描いた屏風は、画面全体が黄金色に輝き、白雲がたなびき、向かって右側のパネル状の第一扇とよぶ面には、右下に富貴の花である牡丹が咲いています。二枚目の左側の第二扇とよぶ面にかけて、早春の季節、梅の木が太湖石(たいこせき)を置いた太い幹を彎曲させながら伸びており、枝には梅の花が咲いています。幹には、胸毛を朱に染めた錦鶏鳥が悠然と止まっています。その横には、つがいの鳥も寄り添っているようです。第二扇の下部には、海浜で波打つ風景が見られます。バランスよい空間を保ちながら、絢欄な金屏風に仕上がっているといえるでしょう。

 それでは、この屏風の特色はどこにあるのでしょうか。私は美術には疎いのですが、本屏風は室町時代後期の画家であり、狩野派発展の基礎を築いた狩野元信(もとのぶ)(1476ー1559)の作品の紛本を下敷きにしたと考えられます。その図とは、元信が天文(てんもん)18年(1549)に描いた紙本金地著色(ちゃくしょく)の六曲一双(ろっきょくいっそう)(六枚のパネルをつないだものの一対)「四季花鳥図屏風」(神戸市・白鶴美術館蔵)です。

 同図は、太湖石を置き、梅・桜・楓や牡丹・芙蓉・菊・龍胆・紅椿など四季の草木・花が咲き誇り、孔雀・白鷺・錦鶏鳥が遊ぶ構図をとる金壁画として有名です。のち、狩野派画家たちが描く四季花鳥図の図様構成に影響を与え、狩野派画家のスタンダードなモデルとなりました。葆光描く朱色の錦鶏鳥は、元信の錦鶏鳥(きんけいちょう)をコピーしたかのようです。

 葆光が描いた年代はわかりませんが、江戸中期の時期に重なると思われる明和(めいわ)9年(1772)8月の『丹南藩分限席順帳』が残されています(堺市・井上家文書)。当時の丹南藩主は、八代高木正弼(まさのり)でした。この頃、藩主は江戸定住のため、丹南陣屋には家老の加藤弥兵衛や西村伝兵衛以下の武士たちが詰めていました。

 葆光の作品は、大名御抱えの狩野派画家として規範にのっとっていますが、オリジナリティも見うけられそうです。京都の正統的な狩野派とは趣きを変え、文雅を好みつつ、実学の土壌を持った大坂で、図様構成である種の堅苦しさからの脱却や個性を表現しようとしたとみてよいでしょう。

 河内における丹南藩の遺構や遺物があまり知られていませんので、本屏風が藩のものであれば、貴重な文化財として伝えていかなければなりません。

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