189 天保14年再建の来迎寺山門

来迎寺山門全景

来迎寺山門(丹南3丁目) 天保14年の再建後、明治20年(1887)にも修復されている。

山門に納められた観音経の写真

山門に納められた観音経(来迎寺蔵)

天保14年銘の瓦の写真

天保14年銘の瓦(来迎寺蔵)

天保14年銘の瓦の写真

天保14年銘の瓦(来迎寺蔵)

「獅噛み」に似せた山門の飾りの写真

「獅噛み」に似せた山門の飾り

発見された紀年瓦と観音経 相藤一門が彫った獅嚙みか

 昨年来、来迎寺(らいごうじ)(融通念仏宗・丹南3丁目)の調査をさせていただきましたが(「歴史ウォーク」187・188)、その際、現山門が建てられた年代も判明しました。本堂が棟札の発見で、江戸時代前半の承応(じょうおう)2年(1653)に再建されていましたが、山門は、江戸時代末期の天保(てんぽう)14年(1843)、21世義諦(ぎたい)の時に建てられたようです。

 「諸佛山(しょぶつさん)」の山号が掲かる堂々たる山門は、平成16年に新しく瓦が葺きかえられましたが、この時、「河州丹南郡松原村 細工人四十三名 瓦屋文治郎 作」「天保拾四年卯五月吉日」と刻まれた軒平瓦(のきひらがわら)が見つかったからです。天保14年に、瓦屋の文治郎が細工人43人と共に、作業にあたったことがわかります。ただ、来迎寺のある丹南村は丹南郡ですが、隣村の松原村(岡・新堂・上田)は丹北郡に含まれます。

 山門見学には、伝統工芸士で河内國彫物師の高橋孔明さん(「歴史ウォーク」184)と地車(だんじり)研究者の村岡眞一さんとご一緒しました。その折、お二人から山門上部の飾り彫物は、幕末の地車彫刻で有名な大坂の相藤(あいとう)一門(相野藤七(あいのとうしち)家)の作と考えられると教えていただきました。

 建築史で、地車彫刻の作者と同じくする寺社建築の作品にせまる研究はまだまだ進んでいません。しかし、江戸時代以降、地車を飾る彫物師が大工集団などの一員として、寺社建築の彫物に従事するケースが往々に見られます。

 来迎寺山門に飾られる彫物は、地車彫刻で唐獅子(からじし)が屋根に嚙みついている様を表現した「獅嚙(しが)み」そのものです。お二人によると、山門に「獅嚙み」が飾られるのは珍しいのですが、この彫り方は相藤一門の中でも、天保年間から慶応(けいおう)年間(1830年から68年)に活躍した9代相野藤七(現大阪市中央区船場に居住)か、藤七家の分家と思われ、立部(たつべ)の栄久寺(えいきゅうじ)の欄間を彫った相野伊兵衛(次号掲載)か、あるいは同時期に相藤一門を背負った相野夘兵衛(うへえ)の作ではないかと推定されています。夘兵衛は弘化(こうか)2年(1845)、大阪天満宮(大阪市北区)の本殿や拝殿などの彫物を中心となって刻んだことで有名です。

 相藤一門が彫った寺社彫物は、江戸時代後半から明治時代にかけて、高野山(和歌山県)の山内寺院に多くあり、融通念仏宗総本山の大念仏寺霊明殿(だいねんぶつじれいめいでん)表門(大阪市平野区)や、あびこ観音山門(大阪市住吉区)にも見られるといわれています。

 私は、特別の許可をいただいて、山門の屋根裏にあげていただきました。身をよじらせて中に入りましたが、山門が再建された天保14年、来迎寺の檀信徒が先祖や身内の供養のため、山門屋根裏に奉納した観音経が大量にまとまっておかれていました。いずれも、経本の最初に丹南村や郡戸(こうず)村(羽曳野市)、小平尾村・東多治井村・石原村・菩提(ぼだい)村(堺市美原区・東区)、今熊(いまくま)村・池之原村(大阪狭山市)などの人々の名が記されていたのです。

 山門は石段上に建ち、西側には武者窓を備え、境内を北に向かって、今も城郭のように堅固な石垣が積まれています。城持ちではなかった丹南藩主高木氏が陣屋に接する菩提寺の来迎寺を防御の砦としたのでしょう。

 なお、藩政時代には、寺と陣屋とを分ける山門があったといわれており、のち、来迎寺の末寺であった平尾村(堺市美原区)の正念寺(しょうねんじ)に移され、それが薬医門(やくいもん)の現山門であると伝えられています。

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