198 天美車庫に残る大正期煉瓦建物

昭和30年代の河内天美駅の画像

昭和30年代の河内天美駅(天美南3丁目。松原市制施行50周年記念誌より)。当時、改札口は西口のみであった。

大阪鉄道河内松原ー天美車庫前間の切符の画像

大阪鉄道河内松原ー天美車庫前間の切符 昭和5年8月28日。運賃は7銭であった(天理大学附属天理参考館蔵)。

小口積みと長手積みの組み合わせと、壁柱の画像

小口積みと長手積みの組み合わせと、壁柱

壁柱の幅は320ミリ。いずれも天美南3丁目、近畿日本鉄道古市検車区天美車庫。

北側からの画像

 北側から

北東側からの画像

北東側から

大正12年、旧大阪鉄道に建設 天美車庫前から河内天美駅へ

 大正七年(一九一八)六月二十二日、現在の近鉄南大阪線の前身となる大阪鉄道道明寺−大阪天王寺(現大阪阿部野橋)間に鉄道敷設の免許状が下付されました。その四年後の大正十一年(一九二二)三月三十一日、道明寺−布忍間の線路工事が完成し、同年四月十八日に旅客輸送が開始されたのです。松原市域に、初めて電車が通って河内松原駅と布忍駅が設けられました。

 翌大正十二年(一九二三)三月十一日、天美車庫が新設されました。同月二十三日には、これまで電車の走っていなかった布忍−大阪天王寺間の線路もつながったのです。そして、四月十三日に旅客輸送が始まり、ここに道明寺−大阪天王寺間全線が結ばれました。

 現在の河内天美駅は、車庫に西接して、この大正十二年に開業するのですが、当時の駅名は天美車庫前と付けられました。河内天美駅となるのは、昭和八年(一九三三)四月一日のことです。

『大鉄全史』(佐竹三吾監修、一九五二年、近畿日本鉄道)によると、車庫は久保田組の竣工で、敷地総面積八二五〇坪。鉄筋コンクリート造り平屋建鉄板葺五棟の他、鍛(たん)工場、機械工場、木工場、電工場、倉庫、守衛詰所など各一棟が設けられました。のち、昭和七年(一九三二)八月、車庫の一部が焼失しましたが、翌年一月、増改築を行っています。

 現在、天美車庫は古市検車区に属し、南大阪線や吉野線を走る特急電車を定期的に点検する唯一の車庫です。建設から九十年がたち、敷設時の様子とは変わっていますが、赤煉(れん)瓦(が)造りの倉庫が今も一棟残っています。敷地内は立ち入れませんし、ホームからも見えないので、この煉瓦建築はほとんど知られていません。

 今回、近鉄本社の許可を得て、車庫に入れていただきました。そのおり、近代化遺産に詳しい柏原市教育委員会文化財課の石田成年さんにも同行をお願いし、いろいろと煉瓦建築のことを教えていただきました。

 平屋の煉瓦倉庫や煉瓦の実測をしたところ、屋根までの高さは七メートル六〇、煉瓦の寸法はほぼ二三〇ミリ×一一〇ミリ×六〇ミリでした。現在の煉瓦は、大正十四年(一九二五)に日本標準規格(JES)で決められた二一〇ミリ×一〇〇ミリ×六〇ミリが使われています。それまでは、さまざまな形状寸法の煉瓦が用いられていました。その点でも、天美車庫の建物は大正十四年以前のいわゆる「東京形」に近いものと考えられています。

 次に、煉瓦の積み方ですが、一つの列は煉瓦の長い方の面を見えるように積む長(なが)手(て)積(づ)み、その上の列は小(こ)口(ぐち)が見えるように積む小口積みとし、そして、その上の列はまた長手積みと並べ重ねています。こうした積み方を「イギリス積み」と呼び、煉瓦建物では、一般的に採用される組積法です。

 ふつう、明治期の煉瓦建物は意匠を凝らしたものが多いのに対し、大正期のものはシンプルなものが多いといわれています。天美車庫の煉瓦建物も全体的にはシンプルな外観ですが、それでも外面に壁柱を表現するなど、個性的なデザイン性も見られるのです。

 天美車庫が出来た六カ月後の九月一日、関東大震災が起きました。その結果、煉瓦建物の耐震面での欠陥が露呈し、翌十三年の市街地建築物法施行規則改正で、煉瓦建物は減っていったのでした。

 関西の鉄道に残る大正期までの煉瓦建物は数も少ないことから、本建物は市内だけでなく、関西でも貴重な近代化遺産として保存されることが望まれます。

このページに関するお問い合わせ先

松原市 市長公室 秘書課
〒580-8501
大阪府松原市阿保1丁目1番1号
電話:072-334-1550(代表)