195 竹内街道・横大路一四〇〇年記念

緑の一里塚(立部5丁目)の画像

復元された寛政9年道標(岡4丁目)

緑の一里塚のオープンにあわせ、同日、竹内街道と旧の中高野街道分岐点の旧地に復元建立された。

緑の一里塚(立部5丁目)の画像

緑の一里塚(立部5丁目)

3月29日のオープニングセレモニーでは、「マッキー」や奈良の「せんとくん」も参加し、多くの人々でにぎわった。

「八木札の辻交流館」の伊勢参りの欄間(橿原市)の画像
「八木札の辻交流館」の伊勢参りの欄間(橿原市)の画像

「八木札の辻交流館」の伊勢参りの欄間(橿原市)
国の伝統工芸士の高橋聖峰・孔明さん親子(新堂在住)によって修理・復元された。二見浦の夫婦岩(右)や鳥居・高燈籠(左)が彫られている。 

緑の一里塚や八木札の辻の 松原修理欄間リレーウォーク

 難波(大阪市)と大和(奈良県)を結ぶ最古の官道といわれる竹内街道・横大路が敷設されて、今年十一月で一四〇〇年になるということで、本市など沿道にあたる十市町村では、九月から「竹内街道・横大路(大道)一四〇〇年記念リレーウォーク」を催します。

 『日本書紀』の推古天皇二十一年(六一三)十一月に、「難波より京に至る大道を置く」という記述があり、これが難波から河内を経て、当時、推古天皇の宮であった飛鳥の小墾田宮(奈良県明日香村)に向かう竹内街道(大和に入って横大路とよぶ)の初見と考えられています(「歴史ウォーク」11・181)。

 市域南部の岡から立部の一・五キロを走る竹内街道沿いの立部五丁目に市営柏木住宅が建っています。同地は、旧石器から近世にわたる立部遺跡に含まれます。とくに、住宅の建て替えの際、平安時代後期と鎌倉時代の丹南鋳物師の工房に関わる多数の土坑、掘立柱建物跡、井戸跡が検出されました。土坑は、鋳型や炉を構築するための粘土を採掘した跡と考えられます。その中からは、土器埦や瓦器埦のほか、鋳物製造にともない排出された多数の鉄滓や鋳物片、炉壁片も見つかりました。大規模な河内の鋳物師の工房が存在したことが推測されます。

 その柏木住宅のポケットパークに、三月二十九日、大阪府の「みどりの風を感じる大都市・大阪」の取組みと連携して、譛国際花と緑の博覧会記念協会の協力を得て、「緑の一里塚」のモニュメントが建てられ、クスノキが植えられました。

 江戸時代、一里塚は街道を行き交う旅人の目印になりましたが、モニュメント北側は、「海道浦」と呼ばれており、多くの人々が寺社参詣や商いの道として利用したのです。「緑の一里塚」から数百メートル西に行った旧中高野街道と交差する岡四丁目と、そのすぐ西の松原南図書館角に、寛政九年(一七九七)五月に伊勢講が建てた二基の道標が現存しています(「歴史ウォーク」139)。

 竹内街道は二上山を越えて大和に入り、葛城市の長尾神社あたりから奈良盆地をなおも東西に進み、そこからは、横大路とよばれるようになります。横大路が近鉄大和八木駅から南東すぐの橿原市北八木町で、やはり古代から奈良盆地を南北に縦断する下ツ道と交差するところが、八木札の辻です。

 八木札の辻は日本最初の国道交差点とも称されますが、横大路は江戸時代には初瀬街道とか伊勢街道ともよばれ、長谷寺や伊勢神宮の参詣道ともなりました。

 札の辻には旅籠が建ち並んでいましたが、その一つに東の平田家がありました。大坂の浪速講が伊勢参りをする際の正規の宿としても有名です。十八世紀後半~十九世紀前半頃に建てられましたが、近年、橿原市に建物が寄贈されました。市では、整備工事を行い、昨年七月から「八木札の辻交流館」として一般公開しています。旅籠当時、一階が家族の居室や接客部分で、二階が宿泊施設でした。

 二階の客間六室には、伊勢参りをモチーフとした欄間が飾られています。その整備の過程で、十枚にもわたる欄間の修理・復元にあたったのが、松原で活躍する国の伝統工芸士である河内國彫物師の高橋聖峰・孔明さん親子でした(「歴史ウォーク」184)。

 市が譲り受けた際、杉材の傷みはひどく、図柄がはっきりわからないもありました。高橋さんは新堂の工房にこれらの欄間を持ち帰り、一枚一枚、数カ月かけて二見浦の夫婦岩や伊勢湾の波間と帆掛船・干網や、宇治橋の鳥居および高燈籠、松坂城と思われる城郭などを再現したのでした。

 九月二十一日、一四〇〇年記念ウォークが橿原をトップに開催され、八木札の辻もコースに組み込まれています。松原コースも十月二十七日に竹内街道を歩きます。多くの皆さんの参加をお待ちしています。

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