196 小川と不退寺・正定寺

本堂に架けられた喚鐘の画像

本堂に架けられた喚鐘 安永7年(1778)の銘がある。

内陣に祀られる阿弥陀如来立像の画像

内陣に祀られる阿弥陀如来立像 右が不退寺像。左が正定寺像。

不退寺と正定寺の画像

不退寺と正定寺(小川4丁目)前の道が大坂街道。

東・西本願寺を本山とする小川の阿弥陀如来像と喚鐘

 小川四丁目に、真宗大谷派の不退寺と浄土真宗本願寺派の正定寺が法灯を続けています。両寺は、もともと現在地に隣接して東向きの建物として並立していました。

 大正十一年(一九二二)十一月発行の『大阪府全志』— 巻之四(井上正雄著)に、不退寺は「三十五坪の境内に本堂のみを存す」とあり、正定寺は「四十坪の境内に本堂のみを存す」と記しています。しかし、今では建て替えられ、正定不退寺として、一つの建造物に本堂を共有し、それぞれの本尊である阿弥陀如来立像を祀っています。

 寺の前は、大坂街道、あるいは古市街道ともよばれる古くからの道でした。寺の前には地蔵堂が祀られ、また、明治二年(一八六九)九月に建立された伊勢灯籠も現存しています(「歴史ウォーク」140)。

 不退寺は、江戸時代前半の貞享三年(一六八六)に僧の善入によって開基され、小川山という山号を持ちます。

 一方、正定寺は、元禄六年(一六九三)、小川村の庄屋であった谷與次兵衛正長によって建てられたと伝えています。谷家の祖は京都の人で、慶長十五年(一六一〇)五月十日に亡くなった「畠山源義光入道祐西」を初代とします。與次兵衛は三代にあたり、宝永五年(一七〇八)四月十五日に亡くなり、祐願という法名が与えられました。

 両寺が創建された十七世紀後半、小川村は幕府領で、元禄十五年(一七〇二)に代官の久下作左衛門が支配し、のち宝永元年(一七〇四)には安藤駿河守信友の預り所となりました。しかし、正徳二年(一七一二)より、武蔵国川越藩(埼玉県)の大名である秋元但馬守喬知の所領となり、秋元氏が代々、幕末まで至りました。

 秋元氏は、市域では、他にも松原村(上田・新堂・岡)、立部村、西大塚村、阿保村、三宅村、別所村、河合村、油上村(天美西)、更池村(南新町)、東代村(東新町)を支配しました。

 現在、東本願寺を本山とする不退寺、西本願寺を本山とする正定寺ともそれぞれ小川地区二十二軒ずつ、計四十四軒の檀家を持っています。明治十七年(一八八四)二月七日に記された「小川村村勢報告」によると、当時の丹北郡小川村の戸数は四十三軒とあります。このうち、両寺の浄土真宗が三十九軒、別に野中寺(羽曳野市)の真言宗が四軒と見られます。

 現在の八尾空港が第二次世界大戦中、陸軍の専用飛行場になったことから、近くの両寺が兵士たちの宿泊所になっていたこともありました。この時、寺の多くの什物が散逸したといわれています。

 本堂に入ると、向かって右手に祀られている不退寺の阿弥陀如来立像は、像高五〇・六センチを測り、来迎印を結びます。光背と台座は近年、新しくつくりかえられましたが、本体は内刳りを施さない一本のヒノキの木からつくられた一木造で、古色です。眼は、水晶や珠玉をはめこんだ玉眼ではなく、彫眼といって、彫刻だけで眼をあらわしています。

 本堂向かって左側に祀られている正定寺本尊の阿弥陀如来立像は、像高四四・八センチで、やはり来迎印を結んでいます。ヒノキの木を寄せ集めた寄木造で、玉眼、金泥彩です。ただし、光背と台座は不退寺と同じく後補です。

 他に、私が興味を持った文化財に、本堂入口に架かっている喚鐘があります。喚鐘は小型の釣鐘で、法会の開始などを告げるために使用されました。吊す部分の龍頭を含めた全高は五十センチで、口径は三十四センチを測ります。

 ここで注目されるのは、池の間とよばれる表面に「河州丹北郡小川村 道場」「安永七年戌二月吉日」と刻まれていたことです。安永七年(一七七八)二月につくられたのですが、寺の名前はなく、小川村の道場とあります。ですから、どちらの所有物かわからず、あるいは現在のように両寺共有だったかもしれません。また、この時期、寺号が確定していなかったとも考えられます。一つの喚鐘から、両寺の歴史の一コマが推測されるのです。

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