193 咸宜園に学んだ最勝寺恵学

廣瀬淡窓が恵学に送った五言律詩の画像
廣瀬淡窓が恵学に送った手紙の画像

廣瀬淡窓が恵学に送った五言律詩(左)と手紙(右)いずれも天美北5丁目・最勝寺蔵

『入門簿』に記された恵学の入門の画像
『入門簿』(亦楽編)に記された恵学紹介の最勝寺大恵と敬正寺鳳巌の画像
真光寺義専と正因寺大龍

 『入門簿』に記された恵学の入門(左)
『入門簿』(亦楽編)に記された恵学紹介の最勝寺大恵と敬正寺鳳巌(真ん中)
真光寺義専と正因寺大龍(右)

いずれも日田市・財団法人廣瀬資料館蔵

日田の廣瀬淡窓が送った恵学への詩と手紙の発見

 江戸時代末期、城連寺村の真宗大谷派の最勝寺(天美北五丁目)では、恵学が本堂を再建するなど寺の維持に努めました(「歴史ウォーク」192)。

 恵学は、九州・日田(大分県)の有名な私塾である咸宜園で学んだ経歴があり、最近、その関係資料が最勝寺で発見されたので紹介します。

 咸宜園は、文化二年(一八〇五)、儒学者であり、詩人であった廣瀬淡窓が長福寺(真宗大谷派)で開いた学寮に始まります。淡窓は、年齢・身分・学歴を問わず門下生を平等に教育しました。明治三十年(一八九七)に閉塾するまでの九十二年間、隠岐(島根県)と下野(栃木県)を除く全国六六カ国から五〇〇〇名の入門者があったといいます。河内では十八人、摂津で一三八人、和泉も二五人を数えました。兵学者の大村益次郎や蘭学者の高野長英、内閣総理大臣となった清浦奎吾も門下生です。

 淡窓が弘化二年(一八四五)~嘉永三年(一八五〇)の間に回想した自叙伝『懐旧楼筆記』には、恵学を次のように記しています。

 「恵学ハ大坂アチ川南徳寺ノ僧ナリ。幼クシテ塾ニ来レリ。在塾三年ニシテ帰ル。遠思楼集中ニ。送別ノ詩ヲ載セタル者是ナリ。京摂ノ人。予カ門ニ入ル者。此僧ヲ以テ始トス。今河内最勝寺ニ住セリ」

 これによると、恵学は大坂安治川の南徳寺(野田新家村。現大阪市福島区吉野だが、今は茨木市に移転。真宗大谷派)の僧。幼年のころ三年間学び、帰る際に淡窓が送別の詩を贈ったことが淡窓の詩文集『遠思楼詩鈔』に載せられています。恵学は京都や大坂から入門した最初の人で、今は最勝寺にいると見えます。

 門下生の入塾を記した『入門簿』では、恵学(原本は慧学)は文化五年(一八〇八)十月二日に、正明寺の順教の紹介(保証人)で入門したとあります。恵学は文化元年(一八〇四)の生まれで、この時、わずか五歳でした。『懐旧楼筆記』に記すように、三年間、八歳まで日田で学問にいそしみました。のち、恵学は、南徳寺を出て、最勝寺の養子となるのです。

 その最勝寺の調査で、『遠思楼詩鈔』に収録された、淡窓が恵学に贈った五言律詩が掛軸にされて出てきたのです。

 詩鈔には「送恵学帰摂」「負笈来千里  三年業巳成  僑居諳鄙事  孤客解人情  旧誼先花別  春帆與雁行  貽君有烟草  聊表相思名」とあって、軸物は後半部分が少し異なりますが、原物が見つかったことは驚きでした。

 掛軸の下には、淡窓が詩を送ったのち、恵学に宛てた手紙も貼られていました。淡窓の通称である求馬の名で、三月十九日(年次不詳)とあります。淡窓の門下生であり、のち堺に住んだ小林安石のことも記しています。

 恵学が最勝寺住職として、寺観を整えていた天保七年(一八三六)、淡窓の弟で、二代塾主となった廣瀬旭荘が五月に日田を出て、堺の安石の宿屋町山之口(堺区)に下宿することになりました。

 旭荘は七月一日から、淡窓の『遠思楼詩鈔』などをテキストとして、近くの専修寺(堺区神明町。明治期に大阪市に移転。浄土宗)を借りて咸宜園の講義を始めるのです。

 七月十日、恵学は早速、息子の大恵(十五歳)と東瓜破(大阪市平野区)の敬正寺鳳巌(二十一歳)を旭荘塾に入門させました。翌天保八年正月十八日にも、堺櫛屋町の真光寺(堺区戎之町東に移転)の義専(十五歳)や放出(大阪市鶴見区)の正因寺大龍(十四歳)を紹介しています。いずれも真宗大谷派の僧で、咸宜園の「入門簿」(亦楽編)にその記録があります。

恵学は、淡窓や旭荘が実践した「咸く宜し」(すべてのことがよろしい)の教えを幼くして受け、それを多くの人々に広めようとしたのでした。

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