192 最勝寺が勤めた城連寺村門徒

最勝寺本堂(天美北5丁目)の画像

最勝寺本堂(天美北5丁目)

本堂に架かる喚鐘の画像

本堂に架かる喚鐘

親鸞聖人像
裏書の画像

親鸞聖人絵像と裏書 裏書に「釋達如 天保九年戊戌歳四月十二日 河州丹北郡城連寺村最勝寺常什物也 願主恵学」とある。

永代経法名記録の画像

「永代経法名記録」 中興第1世の慧学が現住として、「維持天保七中四月五日」に始めたと記し、前住職の桑原慧博が追記している。  

善正寺(我堂)と関わった 真宗大谷派寺院の歩み

 大和川が間近に流れる天美北五丁目に、真宗大谷派の最勝寺が建っています。江戸時代の河内国丹北郡城連寺村です。この寺地には、もともと戦国時代の明応年間(一四九二~一五〇一)に、真言宗から浄土真宗に改宗した機会に摂津国住吉郡の平野(大阪市)から移ってきた金剛乗院がありました。

 金剛乗院は、江戸時代初頭までには善正寺と改め、東本願寺を創立した本願寺十二世の教如の教化を受けて真宗大谷派に属したのです(「歴史ウォーク」47・191)。その折、寺には順欽と順恵という二人の僧侶が仕えていました。しかし、順欽は元和二年(一六一六)に城連寺村を出て、今の天美西の砂村(油上・芝地区)に道場を設けたのです。その際、善正寺に教如から下付されていた文禄二年(一五九三)の十一世「顕如上人真影」や慶長五年(一六〇〇)の宗祖「本願寺親鸞聖人御影」なども移したことから、二か寺の善正寺が並存するようになりました。

 一方、城連寺村に残った順恵は、もとの善正寺の住持(住職)になりました。元和三年(一六一七)に本堂が火災にあいますが、三年後の元和六年(一六二〇)には再建されました。

 寛永十二年(一六三五)に、砂村に移っていた善正寺と協議し、新たに本山の東本願寺から本尊の阿弥陀如来像を与えられ、これを機に最勝寺と改称しました。最勝寺の名は、近くの阿麻美許曽神社(「歴史ウォーク」18)に接して最勝寺と称する庵があり、同庵が廃寺となっていたので、地元ゆかりの寺号を付けたと伝わっています。

 ところが、慶安年間(一六四八~五二)に無住となったことから、善正寺の住持が最勝寺を兼帯するようになり、城連寺門徒のお勤めもしたのでした。この頃、善正寺は砂村から現在の我堂村(天美我堂)に移っており(寛永十八年)、今も善正寺の「過去帳」には、城連寺村や砂村の人々の名も記されています。

 城連寺村には、元文元年(一七三六)八月以降の明細帳が現存しています。明和八年(一七七一)正月の明細帳では、「境内竪拾六間 横拾四間」「本堂桁行五間 梁行三間 茅葺」とあり、瓦屋根ではありません。その上、我堂村の善正寺が関わっていた表記も見られます。

 しかし、この頃には最勝寺看坊(住職)も戻り、時の恵浄や城連寺村門徒が善正寺との結びつきから離れようとし、安永三年(一七七四)三月の我堂村門徒との交渉の文書も残っています。

 また、今も最勝寺本堂の軒先に架かる喚鐘には、「寛政四壬子年七月廿日 河内城連寺邨 最勝寺 常什物慧浄御代」と刻んでいます。慧(恵)浄の寛政四年(一七九二)には、寺観も整っていったのでしょう。最勝寺の歴代住職は、今に至るまで恵や慧の一字を名乗りますが、それは十八世紀後半には見られたのでした。

 現在の本堂は、嘉永二年(一八四九)に建立されたものです。当時の住職は、恵(慧)学でした。恵学は最勝寺の発展につとめた住職で、本堂再建の前にも、東本願寺二十世達如より、天保九年(一八三八)に親鸞聖人の絵像を下付されています。また、二年前の天保七年(一八三六)には檀家の「永代経法名記録」も始めたのでした。

 本堂には、七高僧像や聖徳太子像も祀られており、いずれも裏書には、昭和二十年に現住職の祖父の桑原慧馨が修復したとあります。下付時の裏書は失われていますが、達如の下付の可能性もあるでしょう。

 城連寺村門徒と共に歩んだ最勝寺は、地元ゆかりの寺号を得て、南無阿弥陀仏の教えを広めていったのでした。

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