44 一津屋古墳と一津屋城

厳島神社の画像

厳島神社(一津屋5丁目)
古墳を再利用した城砦跡に一津屋の氏神が祀られている。

前方後円墳を利用 した三好氏の城砦

 一津屋5丁目に市杵島姫命を祭神とする厳島神社が鎮座しています。境内は、マツ・クロガネモチ・アラカシなど樹種が豊富で、そのうえ市内で唯一、整った森林型を示しています。

 境内は一部、濠が残り、鳥居の建つ西側が方形で、それに続く東側の本殿が小高い円丘上に建つことから、もとは5~6世紀の前方後円墳ではないかと推察されます。

 発掘調査は行われていませんが、江戸時代の『河内志』に「荒墳、一津屋村に在り、御墓と曰う」とあることから、この古墳の可能性が高いでしょう。現状は長径36メートルを測り、今では一津屋古墳とよんでいます。

 神社のすぐ北側でも埋没していましたが、前方後円墳の川ノ上古墳が検出されました。ここから出土した埴輪などの遺物は、上田7丁目の郷土資料館に展示されています。

 ところで、厳島神社の建つ場所は小字「山城屋敷」「鐘付山」「御墓」とよばれているところです。先の『河内志』によると、「一津屋城、三好駿河守所保」と記されており、戦国時代に三好氏の城砦があったようです。

 中世の同時代史料になく、また、駿河守とはだれかなど不確かなことも多いのですが、人工の造山である古墳が再利用でき、東に東除川が流れる同地は要害の地でした。ですから、「山城屋敷」の名も残ったのでしょう。

 三好氏は阿波(徳島県)の三好郡を本拠としていましたが、三好長慶が畿内を支配しようとした戦国末期の16世紀半ばごろ、河内でも激しい戦いがくりひろげられました。

 長慶は、高屋城主(羽曳野市古市)で河内守護の畠山氏を討つため、一津屋のすぐ東北の本市若林に天文16年(1547)陣所を置き、永禄3年(1560)には進軍しています。三好氏の河内攻防の過程で一津屋にも城砦がつくられたのでしょう。

 「鐘付山」という小字名も、変事があると直ちに城内の鐘を打って、急を知らせたので、この名が残ったと伝えられています。今も「鐘撞山」の扁額が拝殿内に保管されています。  三好氏は、まもなく畠山氏を討って河内を直接支配しましたが、天正3年(1575)、織田信長は三好氏などを圧倒して河内を平定しました。

 信長はこの時、高屋城・飯盛山城・信貴山城という主要な城郭をはじめ、 河内大塚山古墳を利用した丹下氏の丹下城(「歴史ウォーク」41)など、各地の城砦をことごとく破却しました。 一津屋城も、こうした中世の終焉とともに姿を消したのでしょう。

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