
若宮氏塋域(天美北7丁目、城連寺・池内墓地)
右から若宮春隆、春隆妻(ハナ)の実家・遊佐氏、春時妻の民榮、その左が春時の墓。
奈良市白毫寺町の東山霊園にも、江戸~明治初年までの若宮家代々の墓石が今も祀られている。
奈良・春日大社の禰宜職 若宮氏が天美の郷社に奉仕
古都奈良のシンボルである春日大社には、いつも全国各地から多くの参拝者が訪れています。
ところで、明治の初めまでこの春日大社の神官で、禰宜職にあったのが阿麻美許曽神社宮司の若宮さん(現姓は松宮氏)でした。阿麻美許曽神社は天美地区の城連寺・池内・芝・油上などの氏神で、延喜式内社として由緒あるお社です(「歴史ウォーク」18)。皆さんの中には、お正月の松原六社めぐりの一社としてもなじみがおありでしょう。
同社は、大和川に架かる下高野橋南詰に鎮座しています。明治初年の神仏分離まで境内には「天見山」の山号をもつ神宮寺があり、僧侶が神社のお守りをしていました。天美我堂の西川宏さんご所蔵の「阿麻美許曽神社跡目神官の披露」(明治15年)という文書には、明治13年(1880)1月に神社に奉仕していた光野牧次郎が亡くなったので、翌14年5月より春日大社の元禰宜であった若宮春時を宮司として迎えたと記しています。
史料には「若宮氏は人体もよろしく、神職としての作法も万端心得ておられるので、丹北郡役所へ願い届け出をいたします」とあります。また、若宮氏の給料にも触れ、「隣村長原村(大阪市平野区)の志紀長吉神社の鈴木宮司と同様にする」と述べています。
若宮家は、春日大社に奉仕する禰宜のうち、いまの奈良市高畑町の「社家町」に住んでいた南郷三十五家の一つでした(明治三年調「春日社禰宜家譜」春日大社蔵)。明治の初めに社家制度が廃止されたのを機に、奈良を離れ、天美に来た春時は境内を整備し、氏子の組織をまとめました。春時は明治30年(1897)8月に亡くなりましたが、その後を継いだ春隆がいっそう神社の維持・発展を図りました。
春隆は日露戦争後の明治40年(1907)、出征した氏子の人々を顕影するため、本殿前に設けられた注連石の両側に各村ごとに個人名を刻みました(「歴史ウォーク」103)。
春隆は昭和10年(1935)2月、東門に「郷社阿麻美許曽神社」の社号標石を建てましたが、これを揮毫したのは、春日大社宮司の江見清風でした。社標北面に「官幣大社春日神社宮司正四位勲四等江見清風謹書」と記しています。春隆は、この1か月後の3月に亡くなりました。
神社から東南1キロほどの所に、城連寺・池内墓地(天美北7丁目)があります。その事務所西側に、明治以降の若宮家の7基もの長大な墓石が一列に並んでいます。
春時の墓は、氏子有志が建立したと石碑に刻んでいます。大正3年(1914)に亡くなった春時妻の民榮の墓も夫に寄り添うように建っています。春隆の墓も妻ハナ(遊佐氏出身、昭和7年没)の隣りに見られます。
天美に残るこれらの神職墓は、近代文化財としても貴重なものといえるでしょう。