花粉でわかる昔の景色

更新日:2018年12月13日

昔の景色を描くには…?

 発掘調査では、ここに建物があったとか、溝があったとか、道があったとかいうことが、その痕跡(遺構)を見つけることでわかります。また土器や木製品が出土することで昔の人が使っていた道具類がわかります。 ではこれだけで昔の景色が描けるでしょうか? それらしい絵が簡単に描けるような気がしますが、よーく考えてみると木や草花など身近な植物を描くことが出来ません。

 でもそこに本当に生えていた木々や草花を調べて描く方法が文化財科学にはあります。皆さんの足下、地面の中から花粉を探し出して、昔に生えていた木や草花を調べる“花粉分析”という手法がその方法です。また“プラントオパール”というものを探す分析方法もあります。

 「花粉…?」 そう、花粉症とかで聞くことの多いあの花粉です。花粉は大変壊れにくい物質からできており、意外なことに地中に埋まったままで何十年も何百年も、場合によって何億年も壊れずにいます。

イネのプラントオパールの写真
イネのプラントオパールの写真
 
 

昔の景色は…?

 縄文時代以降の大阪平野南部における木々や草花の生育の状況の変化は、大まかには八尾市の志紀遺跡や藤井寺市の西大井遺跡で行われた花粉分析によって知ることができます。
 

  1. 縄文時代後期(西暦紀元前1500年~1000年頃)以前
    カシ類やシイ類の花粉が多量に見られることから、平野部から丘陵部、生駒山や金剛山・葛城山などの山地部までカシ類やシイ類の繁る森林(照葉樹林)でおおわれていたと考えられます。
     
  2. 縄文時代晩期(西暦紀元前1000年~300年頃)
    スギの花粉の量が増えます。気候がやや涼しくなってスギが目立つようになったと考えられます。
     
  3. 弥生時代(西暦紀元前300年~紀元後300年頃)
    イネ類の花粉の量が急増し、低湿地での水田開発が始まったことがわかります。
     
  4. 古墳時代(西暦300年~700年頃)
    マツ類の花粉の量が急増します。自然にあった照葉樹林が里山や薪炭林といった人が管理するマツ類の森に変化していくようです。
     
  5. 室町時代の終わり頃
    ほとんどの照葉樹林は里山や薪炭林にかわってしまいました。
     

なお現在私たちが見ることのできる森林の姿は、ほとんどが明治時代以降、特に昭和20年代(1945)以降に植林されて形成されたものです。

カシ類の花粉の写真
スギの花粉の写真
マツ類の花粉の写真
 

松原市の昔の景色は…?

 それではもっと具体的に松原市域ではどのような景色だったのでしょうか? 松原市は、大阪平野の南端、泉北丘陵の北端に位置していて、高い山などはありませんし、低湿地であったと考えられる場所もそれほど多くはありません。低湿地で生駒山地に近い志紀遺跡や西大井遺跡とはちょっと様子が違うように思えます。

 松原市内の発掘調査で行った花粉分析からは、市内特有の景色が明らかになってきています。

 市域のほぼ中央部に位置する上田町遺跡で行った花粉分析では、古墳時代から中世頃までの間に志紀遺跡や西大井遺跡ではマツ類の花粉が増えるのに比べてマツ類の花粉量が増えることはなく、代わりにカシ類の花粉がほとんどを占めていました。また上田町遺跡以外の市内の遺跡でも同様な分析結果が出ているところがありますので、中世以前の松原市域の景色は、カシの林が点在している風景が推定されます。

 おかしな話ですが、中世以前の松原は、“マツ原”ではなく“カシ原”だったようです。当然、カシの林だけがあったわけではなく、水田も見られました。おそらく水田とカシの林、住居などがモザイク状に散らばっていたのではないでしょうか?

 発掘調査で水田跡の遺構を発見することはたいへん難しい事ですが、上田町遺跡では弥生時代後期(西暦200年~300年頃)の水田跡の遺構が発見されていて、当時の水田風景が明らかになっています。

 水田跡の遺構を発見する以外に遺跡に水田があったかどうかは、花粉分析でイネの仲間の花粉を探すことでもある程度わかりますが、プラントオパールを探すことで、より一層明確になります。

 プラントオパールとは、植物の細胞内部でできる珪酸体で、その形状から植物を特定することができるものがあります。また花粉と同じように地中に埋まったままで長い間壊れずに残ります。イネの葉っぱの中でできたプラント・オパールは、そのほかのすべての種類のプラント・オパールとは区別され、イネの葉っぱの中でできたことが特定できます。つまりこのプラント・オパールを見つけることでそこにイネが生えていたことがわかります。

 イネはいうまでもなく“お米”です。ということは、“イネが生えていたところ”=“水田”ということになります。

 東新町遺跡では、古墳時代前期(西暦300年~400年ころ)の地層からイネのプラントオパールを探し出しました。これによって東新町遺跡付近では、古墳時代前期には、すでに水田が作られていたことが証明されました。きっと水田の近くにはムラもあったことでしょう。

 カシの林と水田風景、そしてその間に垣間見る村々の茅葺や板葺き屋根の家並み…。古代の風景をちょっと想像してみてください。

(注意)

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  2. このページは、川崎地質株式会社微化石分析所の渡邉正巳氏から松原市文化財情報誌「たじひのだより」No.4に寄稿いただいたものを転用しています。

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