文化財ミニ展示開催中

更新日:2022年12月26日

 松原市の歴史をみなさんに知ってもらえるように「まつばらテラス(輝)」1階でミニ展示を行っています。発掘調査で遺跡から掘り出された昔の焼き物(土器)などを紹介していますので、ご覧ください。
 まつばらテラス(輝)の開館中は、どなたでもご自由にご覧いただけます。 

展示場所

まつばらテラス(輝)1階
大阪府松原市田井城3丁目104-2

開館時間

午前9時から午後9時

休館日

12月29日から1月3日

展示作業の様子

 

 

展示物の一部

現在開催中の展示

第5回 松原市内の古墳―立部古墳群―

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  第5回目は、松原市内の古墳を取り上げます。現在、市内で目にすることができる古墳は、河内大塚山古墳、一津屋古墳のみです。しかし、発掘調査では複数の古墳が見つかっています。

  今回は、発掘調査で見つかった古墳の中から、立部古墳群をご紹介します。本古墳群は5世紀後半~6世紀代に築かれた7基からなる古墳群で、古墳の規模や相互の位置関係が明らかなため、古墳群の様子を知ることができます。

  本展示では、古墳に配置された埴輪や出土した須恵器などから、立部古墳群を紹介しています。出土遺物などを通して、当時の葬送など古墳時代の社会の一端を感じていただければ幸いです。

展示資料
資料名 出土遺跡名 点数 保管機関
剣形埴輪 立部遺跡・立部古墳群 1  松原市教育委員会
須恵器 杯 立部遺跡・立部古墳群 2  松原市教育委員会
甲冑形埴輪 立部遺跡・立部古墳群 5  松原市教育委員会
円筒埴輪 立部遺跡・立部古墳群 5  松原市教育委員会
朝顔形円筒埴輪 立部遺跡・立部古墳群 1  松原市教育委員会

※立部古墳群については、下記のページでもご紹介しています。

過去に実施した展示

第4回 河内鋳物師(かわちいもじ)―鋳物(いもの)の職人―

展示風景

    第4回となる今回は、日本遺産竹内街道・横大路(大道)に関連して、主に平安時代~鎌倉時代に活動した河内鋳物師を取り上げます。鋳物師とは、お寺の梵鐘(ぼんしょう)や日用品の鍋・釜などの金属製品をつくっていた職人のことです。河内鋳物師は河内国丹南郡及びその周辺(現松原市及び堺市美原区ほか)を拠点としていました。

    松原市域では、岡遺跡(柴垣1・岡2~5)、立部遺跡(柴垣2・立部2~5)、丹南遺跡(丹南2~5)などで河内鋳物師に関連する遺構・遺物がみつかっています。
    本展示では、これらの遺跡の中から、竹内街道に接する市営柏木(かやのき)住宅の建築に伴う立部遺跡の調査成果を、鋳物師たちが鋳造(ちゅうぞう)した鍋の鋳型(いがた)や日常で使用した土器をもとに紹介します。ぜひご覧ください。
 

展示資料
資料名 出土遺跡名 点数 保管機関
瓦器 椀 立部遺跡 2  松原市教育委員会
土師器 皿 立部遺跡 2  松原市教育委員会
鋳型 立部遺跡 6  松原市教育委員会
炉壁 立部遺跡 2  松原市教育委員会
羽釜 立部遺跡 1  松原市教育委員会
瓦質土器 鉢 立部遺跡 1  松原市教育委員会

第3回 聖武天皇がつくった難波宮

 今回は、日本遺産竹内街道・横大路(大道)の起点となる難波地域で、聖武天皇がつくった後期難波宮を取り上げます。孝徳天皇がつくった前期難波宮は、朱鳥元年(686)天武天皇の時代に焼失します。その後しばらく宮殿は建てられませんでしたが、難波地域を再び重要視した聖武天皇が神亀3年(726)から天平4年(732)にかけて、後期難波宮と呼ばれる新たな宮殿を造営しました。展示では、この宮殿で初めて取り入れられた文様(重圏文)をもつ瓦や宮殿で使われた土器などを通して、後期難波宮を紹介しています。

ガラスケースの展示風景
展示資料
資料名 出土遺跡名 点数 保管機関
土師器 坏身 大坂城跡 2 公益財団法人大阪府文化財センター
土師器 皿 大坂城跡 2 公益財団法人大阪府文化財センター
須恵器 坏身 大坂城跡 1 公益財団法人大阪府文化財センター
須恵器 坏蓋 大坂城跡 1 公益財団法人大阪府文化財センター
須恵器 高台付坏 大坂城跡 2 公益財団法人大阪府文化財センター
重圏文軒丸瓦 大坂城跡 1 公益財団法人大阪府文化財センター
蓮華文軒丸瓦 大坂城跡 2 公益財団法人大阪府文化財センター
重圏文軒平瓦 大坂城跡 1 公益財団法人大阪府文化財センター
唐草文軒平瓦 大坂城跡 1 公益財団法人大阪府文化財センター

 

第2回 難波と飛鳥を結ぶ古代の官道ー難波宮跡と難波京朱雀大路・難波大道ー

ガラスケースの中を見ているゆるキャラの写真

 平成29年4月、松原市を含む沿道の自治体にある文化財が『1400年に渡る悠久の歴史を伝える「最古の国道」~竹内街道・横大路(大道)』として日本遺産に認定されました。今回は、認定を記念して「難波宮跡」とそこから南へ延びる「難波大道」より発掘された遺物を展示しています。
 難波の地は古墳時代より倭王権の朝鮮半島への窓口として様々な文物が行き交い、「難波津」と呼ばれました。その重要性から、推古天皇が難波と飛鳥の小懇田宮を結ぶ道を推古21年(613)に整備した記録が『日本書紀』に残っています。整備した道が現在のどの道にあたるかは諸説ありますが、竹内街道と難波大道はその候補の1つです。
 推古天皇より後の時代には、難波の地を重要視した孝徳天皇と聖武天皇が都を置きます。最初におかれた都は「難波長柄豊碕宮」と呼ばれ、発掘調査で見つかった建物跡群がそれにあたると考えられています。難波宮より南に一直線に伸びた難波大道は、竹内街道と交差するまで南に伸びると想定されており、その道の一部が松原市の今池水みらいセンターの発掘調査で見つかっています。

展示資料
資料名 出土遺跡名 点数 所蔵機関
土師器 坏 難波宮跡 3 大阪市教育委員会
須恵器 坏蓋 難波宮跡 2 大阪市教育委員会
須恵器 坏身 難波宮跡 2 大阪市教育委員会
須恵器 坏蓋 大和川今池遺跡(難波大道) 3 公益財団法人大阪府文化財センター
須恵器 坏身 大和川今池遺跡(難波大道) 5 公益財団法人大阪府文化財センター

第1回 農の初まり池内遺跡ー近畿最古級の水田址ー

ガラスケースの中に展示されている土器の写真

 阪南大学より北側の天美東から天美北地区にひろがる池内遺跡では、約2,500年前の弥生時代前期に作られた水田の跡が見つかっています。
 水田は、水を利用しやすい川のそばの低い湿地につくられたため、川が氾濫すると洪水の土砂で埋まってしまいました。水田が土砂で埋まり小高い丘のようになったところに村が作られました。しかし、村人たちはすぐに移住しています。どうやら、弥生時代の初めの人々は自然環境の変化に応じて規模の小さな集落と水田の場所を頻繁に移していたようです。
 この場所で水田に稲を植えて生活していた弥生人たちは、引っ越しの時には使えなくなった道具を置いていきました。石で作られた稲穂を摘む道具や水や食料を入れる焼き物(土器)などが多く見つかっています。
 池内遺跡は、今のところ松原市内で一番古い弥生人たちの水田と村の跡がみつかった場所で、松原における農のはじまりを知るための重要な場所です。

展示資料

資料名

出土遺跡名 点数 所蔵機関
弥生土器 壺形土器 池内遺跡 3 公益財団法人大阪府文化財センター
土製紡錘車 池内遺跡 1 公益財団法人大阪府文化財センター
石製紡錘車 池内遺跡 1 公益財団法人大阪府文化財センター
打製石器 石錐 池内遺跡 2 公益財団法人大阪府文化財センター
打製石器 石鏃 池内遺跡 3 公益財団法人大阪府文化財センター
磨製石器 石包丁 池内遺跡 2 公益財団法人大阪府文化財センター

カテゴリー

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松原市 教育委員会事務局教育総務部 文化財課

〒580-8501大阪府松原市阿保1丁目1番1号

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072-334-1550(代表)