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まつばらいろはかるたデジタルアーカイブ

更新日:2023年3月31日
まつばらいろはかるた

このアーカイブは、松原市の歴史や文化などを楽しみながら学んでもらう目的で作られた「まつばらいろはかるた」に詠まれた47首の題材となった文化財をより知ってもらうために作られました。

題材となった文化財は個人や地域の社寺が所有されるものも多く、いつでも自由にご覧いただくことは難しいのが現状です。そのため、多くの皆さまにご理解とご協力をいただきアーカイブとして公開いたします。

原則として、商用利用・非商用利用を問わず自由に二次利用可能な形で公開しており、画像データの利用条件については、メタデータ(画像データ右側の表)の記載をご確認ください。なお、翻刻および読み下し文のデータは全てCC BY-SA 4.0(クリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承 4.0 国際 ライセンス)で提供しています。また、ご利用に際して以下のページをご覧ください。

いろはにほへと

【い】いにしえに 都置かれし 柴籬宮

河内名所図会 6巻[4]

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タイトル 河内名所図会 6巻[4]
ヨミ カワチメイショズエ 6カン[4]
時代 江戸時代
制作年(和暦) 享和1年
制作年(西暦) 1801
差出人・作者・著者 秋里籬島 著、丹羽桃溪 画
形状 冊子
資料解説 河内国にある名所や旧跡を紹介する全6巻からなる書物。巻之四に柴籬宮旧跡(しばかきのみやきゅうせき)と題する絵図があり、柴籬神社(絵図では天満宮と表記)と河内大塚山古墳(絵図では大塚社と表記)が描かれている。著作権保護期間満了のため、国立国会図書館デジタルコレクションで公開中。
資料所蔵者 国立国会図書館

 

【ろ】ロマンあり 我堂八幡宮 力石

両我堂村社寺帳

両我堂村社寺帳
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タイトル 両我堂村社寺帳
ヨミ リョウガドウムラシャジチョウ
時代 江戸時代
制作年
(和暦)
元禄5年
制作年
(西暦)
1692
差出人・作者・著者 東我堂村庄屋 忠左衛門、同村年寄 文左衛門、同 弥左衛門、同 七左衛門、西我堂村庄屋 作左衛門、同村年寄 徳左衛門、同 弥兵衛、同 徳兵衛
宛所 なし
形状 竪帳
大きさ
(cm)
24.3×17.0
資料解説 東我堂村と西我堂村に所在した神社と寺院について記したもの。境内にある建物の名称と規模が記載されている。この資料より、我堂八幡宮の境内に神宮寺が存在したことがわかる。
資料所蔵者 個人
画像の二次利用条件 PDM
管理番号 d0000001

 

 

【は】はるかなり キリシタン灯籠 熱田神社

〔熱田神社建物配置図〕

〔熱田神社建物配置図〕
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タイトル 〔熱田神社建物配置図〕
ヨミ 〔アツタジンジャタテモノハイチズ〕
時代 江戸時代
制作年(和暦) 天明3年
制作年(西暦) 1783
差出人・作者・著者 なし
宛所 なし
形状 一紙
大きさ(cm) 40.1×28.0
資料解説

松原市別所6丁目に所在する熱田神社の境内を描いた絵図である。絵図名の記載はない。建物の他に手水鉢など石造物も記載おり、池溝が青、堤体が黄色で表現されている。

資料所蔵者 個人
画像の二次利用条件 PDM
管理番号 d0000002

 

 

【に】西除の 夜桜たのし 今池堤

〔西除川・東除川村々絵図〕

〔西除川・東除川村々絵図〕
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タイトル 〔西除川・東除川村々絵図〕
ヨミ 〔ニシヨケガワ・ヒガシヨケガワムラムラエズ〕
時代 江戸時代
制作年(和暦) 年未詳
制作年(西暦) -
差出人・作者・著者 なし
宛所 なし
形状 絵図
大きさ(cm) 64.4×63
資料解説 狭山池から大和川にかけて、西除川と東除川の流域に所在する村々を描いた絵図である。絵図名および制作年の記載はない。簡略化された絵図で、河川が黄色の彩色で表現されている。村名の横には石高が記載されており、幕府領以外は支配者の名前も記されている。
資料所蔵者 個人
画像の二次利用条件 PDM
管理番号 d0000003

 

 

狭山池西除普請略図

狭山池西除普請略図
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タイトル 狭山池西除普請略図
ヨミ サヤマイケニシヨケフシンリャクズ
時代 江戸時代
制作年(和暦) 年未詳
制作年(西暦) -
差出人・作者・著者 なし
宛所 なし
形状 絵図
大きさ(cm) 68.9×89.7
資料解説 狭山池と西除川につながる西樋を描いた絵図で、制作年と絵図名は記されていない。絵図の袋には「狭山池西除普請畧□」と記されている。西樋(大樋)は本紙に貼り足した紙に描かれており、池の部分よりも詳細に法量が書き込まれている。
資料所蔵者 個人
画像の二次利用条件 PDM
管理番号 d0000004

 

 

【ほ】本尊は 楠木守る 聖観音

乍恐奉書上候(安明寺由緒之義)

乍恐奉書上候(安明寺由緒之義)
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タイトル 乍恐奉書上候(安明寺由緒之義)
ヨミ オソレナガラカキアゲタテマツリソウロウ(アンミョウジユイショノギ)
時代 明治
制作年
(和暦)
明治4年
制作年
(西暦)
1871
差出人・作者・著者 城連寺村年寄 長谷川孫次郎、城連寺村庄屋 長谷川為治郎
宛所 堺県御役所
形状 竪帳
大きさ
(cm)
24.6×17.2
資料解説 明治4年(1871)に堺県に提出された安明寺の由緒書。二次資料ではあるが、近世以前の城連寺村の姿を知るうえで参考となる。冊子見開き幅約32cm。
資料所蔵者 個人
画像の二次利用条件 PDM
管理番号 d0000016

 

 

【へ】扁額は 八つの景勝 布忍宮

準備中

【と】土器づくり 文化の名残り 立部の土師器

立部古墳群跡 古墳SZ1002~1006

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タイトル 立部古墳群跡 古墳SZ1002~1006
ヨミ タツベコフングンアト コフンSZ1002~1006
時代 古墳時代
撮影年月日 1990-09-07
撮影場所 松原市立部3-399-1
解説 立部3丁目で発見された5世紀後半~6世紀代の古墳群。飛鳥時代以降も墓地が維持され、平安時代前期まで造墓が続いた。古墳は方墳7基、円墳1基が確認されており、10mを超える墳丘規模のものは2基のみである。いずれも後世に墳丘が削平されており、周溝がわずかに残る。写真は東から撮影。
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管理番号 d0000040

 

 

立部古墳群 朝顔形円筒埴輪

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タイトル 立部古墳群跡 朝顔形円筒埴輪
ヨミ タツベコフングンアト アサガオガタエントウハニワ
時代 古墳時代
制作年(和暦) 年未詳
制作年(西暦) -
作者 不明
形状 埴輪
大きさ(cm) 残存高40、底径11.5
資料解説 水路の水口に転用されていた5世紀中頃~後半の埴輪。元は北西約15mの地点にある方墳SZ2001に樹立していた可能性がある。
資料所蔵者 松原市
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管理番号 d0000041

 

立部遺跡・立部古墳群跡F7-2-4・5 調査区全景

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タイトル 立部遺跡・立部古墳群跡F7-2-4・5 調査区全景
ヨミ タツベイセキ・タツベコフングン チョウサクゼンケイ
時代 古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代
撮影年月日 1990-11-09
撮影場所 松原市立部3-399-1
解説 立部3丁目で実施された立部遺跡・立部古墳群跡の発掘調査(調査番号:F7-2-4・5)に伴い撮影された空中写真(斜め写真)で、北から撮影。発掘調査は2期実施しており、写真奥が調査番号F7-2-4、手前が調査番号F7-2-5である。調査では古墳時代から平安時代前期まで継続する墓域が確認されている。写真左は拡張整備される以前の松原市立大塚青少年運動広場(現在は大塚運動広場)で、それ以前は瓜破台地の開析谷を利用したため池「上ノ池」があった。
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管理番号 d0000086

 

 

ちりぬるを

【ち】ちちかみの 伝説かなし はがみさん

長尾街道ちちかみばし道標

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タイトル 長尾街道ちちかみばし道標
ヨミ ナガオカイドウチチカミバシドウヒョウ
時代 明治
撮影年月日 2023-02-09
撮影場所 松原市上田1
解説 長尾街道の松原市上田1丁目地点に所在する明治時代の道標。尖頭形角柱で、【正面】ちゝかみはし、【右面】長尾街道、【左面】長尾街道、【裏面】明治四十三年一月修繕 大阪府、と全4面に銘文がある。道標が修繕された時期の長尾街道は仮定県道の二等横断線で、大正9年(1920)の旧道路法施行により国分堺線として府道に認定されている。
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管理番号 d0000087

 

【り】りりしきは 阿保親王と 人したう

阿保親王社・厳島神社 社殿

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タイトル 阿保親王社・厳島神社 社殿
ヨミ アオシンノウシャ・イツクシマジンジャ シャデン
時代 江戸時代、明治、大正、昭和以降
撮影年月日 2023-02-08
撮影場所 松原市阿保5-4-19
解説 阿保神社に合祀された神社で、阿保神社拝殿東側に社殿が並ぶ。写真左が阿保親王社で写真右が厳島神社。写真は東から撮影。阿保親王を祀る阿保親王社は公垣内にあった阿保親王の御殿跡から合祀された。厳島神社は市杵島姫命を祀り、字「蛭半才」の弁天山にあったものが明治6年(1873)に合祀された。写真は東から撮影。
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管理番号 d0000064

 

【ぬ】布忍にも 十一面観音 大林寺

大林寺 外観

大林寺 外観
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タイトル 大林寺 外観
ヨミ ダイリンジ ガイカン
撮影年月日(西暦) 2016-01-16
撮影場所 松原市北新町1-10-5
資料解説 融通念佛宗寺院の布忍山大林寺の山門及び本堂。写真は南東から撮影。
画像の二次利用条件 CC BY (表示)クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
管理番号 d0000031

 

 

大林寺 木造 十一面観音立像

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大林寺木造十一面観音立像1 大林寺木造十一面観立音像 2 大林寺木造十一面観音立像 3 大林寺木造十一面観音立像 4 大林寺木造十一面観音立像 5

 

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タイトル 大林寺 木造 十一面観音立像
ヨミ ダイリンジ モクゾウ ジュウイチメンカンノンリュウゾウ
時代 平安時代後期(10世紀末~11世紀初め)
制作年(和暦) 年未詳
制作年(西暦) -
作者 不明
材質・構造・技法 ヒノキ材、一木造、彫眼
大きさ(cm) 像高171.5、髪際高145.6
資料解説 融通念佛宗寺院の布忍山大林寺に安置される仏像で、松原市指定有形文化財に指定されている。もとは明治6年(1873)に廃寺となった永興寺の本尊。制作時期は平安時代の10世紀末~11世紀初め頃で、「奈良系仏像」と称される一群と共通する特徴を有する。
資料所蔵者 大林寺
画像の二次利用条件 CC BY (表示)クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
管理番号 d0000032

布忍山永興寺略縁起

布忍山永興寺略縁起
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タイトル 布忍山永興寺略縁起
ヨミ フニンザンヨウゴウジリャクエンギ
時代 江戸時代
制作年(和暦) 年未詳
制作年(西暦) -
差出人・作者・著者 なし
宛所 なし
形状 版本
大きさ(cm) 28.2×40.3
資料解説 松原市北新町2丁目あたりに所在した布忍山永興寺の略縁起を記した木版刷。寛治3年(1089)に永興律師が堀川天皇の勅願により寺院を建立したことが記されており、元文2年(1737)に本縁起を基に新たに製作されたものである。4丁とも綴じ穴がなく未製本の状態である。刊記などがなく、刷られた時期は不明。
資料所蔵者 大林寺
画像の二次利用条件 PDM
管理番号 d0000029

 

 

【を】織りつづく 木綿の技術 金網に

準備中

わかよたれそ

【わ】王仁博士 教えしあとや 聖堂池

河州丹北郡松原村新堂麁絵図

新堂村絵図
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タイトル 河州丹北郡松原村新堂麁絵図
ヨミ カシュウタンボクグンマツバラムラシンドウソエズ
時代 江戸時代
制作年(和暦) 天保14年
制作年(西暦) 1843
差出人・作者・著者 庄屋 助市郎、年寄 藤右衛門、同 八郎兵衛
宛所 なし
形状 絵図
大きさ(cm) 66.0×48.0
資料解説 天保14年(1843)に制作された村絵図で、近世の新堂村の姿を知る上で参考となるものである。集落内の詳細は描かれていないが、氏神の十二社権現のみ緑の彩色で表現されている。袋裏書から、同じ絵図が3枚作られ、新堂村、郡大庄屋、支配請取御代官所築山茂左衛門がそれぞれ1枚ずつ保管したことがわかる。
資料所蔵者 松原市
画像の二次利用条件 PDM
管理番号 d0000005

 

 

〔松原村延宝検地絵図〕

松原村延宝検地絵図
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タイトル 〔松原村延宝検地絵図〕
ヨミ 〔マツバラムラエンポウケンチエズ〕
時代 江戸時代
制作年(和暦) 延宝5年
制作年(西暦) 1677
差出人・作者・著者 なし
宛所 なし
形状 絵図
大きさ(cm) 101.0×75.5
資料解説 延宝5年(1677)に延宝検地に伴い制作された絵図。近世の新堂村の姿を知るうえで参考となるものである。土地ごとに所有者・反別・石高が記入されている。
資料所蔵者 個人
画像の二次利用条件 PDM
管理番号 d0000030

 

 

【か】河内画師 仏教文化の 名の誉れ

立部遺跡 火葬墓ST1004

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タイトル 立部遺跡 火葬墓ST1004
ヨミ タツベイセキ カソウボST1004
時代 奈良時代
撮影年月日 1990-08-24
撮影場所 松原市立部3-399-1
解説 奈良時代(8世紀代)の火葬墓。一辺約0.6mの墓壙の中央に蔵骨器が納められ、そのすぐ隣に須恵器壺が納められていた。蔵骨器内に小破片の火葬骨が残存しており、墓壙を埋め戻した土には炭が混じっていた。詳細は不明であるが、被葬者は官人層の人物と考えられる。
画像の二次利用条件 CC BY (表示)クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
管理番号 d0000042

 

 

立部遺跡 火葬墓ST1004 須恵器

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タイトル 立部遺跡 火葬墓ST1004 須恵器
ヨミ タツベイセキ カソウボST1004 スエキ
時代 奈良時代
制作年(和暦) 年未詳
制作年(西暦) -
作者 不明
形状 須恵器
大きさ(cm) -
資料解説 奈良時代(8世紀代)の火葬墓から出土した須恵器3点。写真左端の横瓶が蔵骨器として利用された物である。右端の壺は蔵骨器のすぐ隣に埋納されており、中央の平瓶は破砕された状態で埋納されていた。
資料所蔵者 松原市
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管理番号 d0000040

 

平安時代の火葬墓ST2005

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タイトル 立部遺跡 火葬墓ST2005
ヨミ タツベイセキ カソウボST2005
時代 平安時代
撮影年月日 1990-10-22
撮影場所 松原市立部3-399-1
解説 平安時代(9世紀前半)の火葬墓。南北1m、東西0.9mの墓壙の中央に蔵骨器が納められていた。墓壙の底から蔵骨器の肩部までを焼土混じりの炭で埋め戻し、それより上を黄褐色系粘質土で埋め戻していた。蔵骨器の壺と蓋は粘土で固定・密封されており、内部には火葬骨及び少量の木炭・焼土が納められていた。出土品は松原市指定有形文化財に指定されている
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管理番号 d0000044

 

 

立部遺跡 火葬墓ST2005 蔵骨器ほか出土品

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タイトル 立部遺跡 火葬墓ST2005 蔵骨器ほか出土品
ヨミ タツベイセキ カソウボST2005 ゾウコツキホカシュツドヒン
時代 平安時代
制作年(和暦) 年未詳
制作年(西暦) -
作者 不明
形状 須恵器、土師器、火葬骨、木炭、焼土
大きさ(cm) 須恵器短径壺の口径9.5、底径12.5、最大径23.4、器高23.6。須恵器蓋の口径12.4、器高3.0。
資料解説 平安時代(9世紀前半)の火葬墓の出土品。蔵骨器として利用された須恵器の短頸壺と蓋は畿内では類を見ない器形である。写真左端は墓壙から出土した土師器杯の破片。写真中央全面から右端は蔵骨器に納められていた火葬骨で、熟年(40~59歳)男性1名のものである。これらは一括で松原市指定有形文化財に指定されている。
資料所蔵者 松原市
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管理番号 d0000045

 

【よ】世の移り 変り見て来た 追分地蔵

〔高見村絵図〕

高見村絵図
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タイトル

〔高見村絵図〕

ヨミ 〔タカミムラエズ〕
時代 江戸時代
制作年(和暦) 年未詳
制作年(西暦) -
差出人・作者・著者 都築金三郎様御代官所河内国丹北郡高見村 百姓代 喜右衛門、同 治左衛門、庄屋 弥三右衛門
宛所 なし
形状 絵図
大きさ(cm) 41.5×56.0
資料解説 近世の河内国丹北郡高見村の姿を知ることができる村絵図。制作年と絵図名は記されていない。田畑には小字名が記されている。高見村の北を東西にとおる長尾街道は「大和海道」と表記されている。
資料所蔵者 松原市
画像の二次利用条件 PDM
管理番号 d0000006

 

 

〔高見村絵図〕

高見村絵図
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タイトル 〔高見村絵図〕
ヨミ 〔タカミムラエズ〕
時代 江戸時代
制作年(和暦) 宝暦10年
制作年(西暦) 1760
差出人・作者・著者 なし
宛所 なし
形状 絵図
大きさ(cm) 31.0×45.0
資料解説

河内国丹北郡高見村の絵図で、絵図名は記されていない。貼り紙には、宝暦10年(1760)の巡見に際し制作された絵図の写しと記されている。長尾街道は「泉州堺より和州道」と表記されている。村内の個々の建物は描かれていないが、高札場のみ高札と囲いが描かれている。

資料所蔵者 松原市
画像の二次利用条件 PDM
管理番号 d0000007

 

 

【た】丹南藩 一万石の 陣屋址

高木主水正勇戦図

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タイトル 高木主水正勇戦図
ヨミ タカギモンドノショウユウセンズ
時代 江戸時代
制作年(和暦) 年未詳
制作年(西暦) -
作者 長秋
形状 掛幅
大きさ(cm) 本紙121.1×44.5
資料解説 江戸時代の19世紀に制作された掛幅。蓋表に「元和之役高木主水正槍而真田丸勇戦之図」とあることから、大坂冬の陣で奮戦する高木正次の姿を描いたものであることがわかる。作者の長秋(ながあき)については詳細不明である。
資料所蔵者 来迎寺
画像の二次利用条件 CC BY (表示)クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
管理番号 d0000036

 

〔丹南村絵図〕

〔丹南村絵図〕
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タイトル 〔丹南村絵図〕
ヨミ 〔タンナンムラエズ〕
時代 江戸時代
制作年(和暦) 安永7年
制作年(西暦) 1778
差出人・作者・著者 河州丹南郡丹南村 庄屋 治郎左衛門、年寄 傳右衛門
宛所 丹南御役所
形状 絵図
大きさ(cm) 52.7×82.4
資料解説 安永7年(1778)に制作された村絵図で、絵図名は記されていない。近世の丹南村の状況を知るうえで参考になる村絵図であるが、丹南藩の陣屋は描かれていない。
資料所蔵者 個人
画像の二次利用条件 PDM
管理番号 d0000026

 

 

〔丹南村絵図〕

〔丹南村絵図〕
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タイトル 〔丹南村絵図〕
ヨミ 〔タンナンムラエズ〕
時代 明治
制作年(和暦) 明治2年
制作年(西暦) 1869
差出人・作者・著者 なし
宛所 なし
形状 絵図
大きさ(cm) 56.1×80.7
資料解説 明治2年(1896)に制作された村絵図で、絵図名は記されていない。安永7年の丹南村絵図と異なり、丹南藩の陣屋が描かれている。
資料所蔵者 個人
画像の二次利用条件 PDM
管理番号 d0000027

 

 

〔丹南村地籍図〕

〔丹南村地籍図〕
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タイトル 〔丹南村地籍図〕
ヨミ 〔タンナンムラチセキズ〕
時代 明治
制作年(和暦) 明治6年
制作年(西暦) 1873年
差出人・作者・著者 河内国第貮拾壹区丹南郡丹南村 戸長 松村文三郎、副戸長 小池彦三郎
宛所 なし
形状 絵図
大きさ(cm) 94.8×172.5、貼り足し部20.6×73.0
資料解説 明治6年に制作された丹南村の地籍図で、絵図名は記されていない。一筆ごとに地番が記されている。丹南藩の陣屋跡地は「邸内地」として描かれており、地番は記されていない。また、西除川右岸に「元丹南県操練場」と記された土地が見られる。
資料所蔵者 個人
画像の二次利用条件 PDM
管理番号 d0000028

 

 

丹南遺跡E8-3-24 調査区南側全景

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タイトル 丹南遺跡E8-3-24 調査区南側全景
ヨミ タンナンイセキE8-3-24 チョウサクミナミガワゼンケイ
時代 飛鳥時代、鎌倉時代、室町時代、江戸時代、明治
撮影年月日 1999-03-24
撮影場所 松原市丹南
解説 丹南3丁目の店舗建設に伴う発掘調査(調査番号:E8-3-24)の調査区南側部分。調査では、主に鎌倉時代~江戸時代にかけての遺構が確認されている。写真に写る幅3mの大溝は室町時代のもので、土器のほかに「来迎寺」記名軒丸瓦も出土している。また、調査区には明治6年(1873)3月制作の丹南村地籍図に「邸内地」と記された土地が含まれるため、江戸時代~明治時代初期の遺構は丹南藩陣屋や藩校に関するものであると考えられる。写真は北から撮影。
画像の二次利用条件 CC BY (表示)クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
管理番号 d0000050

 

 

丹南遺跡E8-3-24 S0171溝

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タイトル 丹南遺跡E8-3-24 S0171溝
ヨミ タンナンイセキE8-3-24 S0171ミゾ
時代 江戸時代、明治
撮影年月日 1999-03-24
撮影場所 松原市丹南3-2
解説 丹南3丁目の店舗建設に伴う発掘調査(調査番号:E8-3-24)で確認された南北87m×東西194m以上の空間を囲うように掘られた溝(遺構番号:S0171)。江戸時代の18世紀~19世紀にかけての陶磁器などが出土した。この溝は小字名「学校敷」にあたるため、明治元年(1868)に丹南藩主高木正坦が設置した丹南学校に関連する遺構の可能性がある。写真は北から撮影。
画像の二次利用条件 CC BY (表示)クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
管理番号 d0000051

 

 

丹南遺跡E8-3-24 S0171溝 水滴出土状況

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タイトル 丹南遺跡E8-3-24 S0171溝 水滴出土状況
ヨミ タンナンイセキE8-3-24 S0171ミゾ スイテキシュツドジョウキョウ
時代 江戸時代、明治
撮影年月日 1999-03-24
撮影場所 松原市丹南3-2
解説 丹南3丁目の店舗建設に伴う発掘調査(調査番号:E8-3-24)で確認された南北87m×東西194m以上の空間を囲うように掘られた溝(遺構番号:S0171)での磁器水滴出土状況。写真は南から撮影。
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管理番号 d0000052

 

 

【れ】れんめんと 農業 見守る 田坐神社

準備中

【そ】そもそもの 農の初まり 池内遺跡

新堂遺跡E7-1-61 I-b区全景

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タイトル 新堂遺跡E7-1-61 I-b区全景
ヨミ シンドウイセキE7-1-61 I-bクゼンケイ
時代 弥生時代
撮影年月日 2019-04-09
撮影場所 松原市丹南3-2
解説 新堂4丁目の土地区画整理事業に伴う発掘調査(調査番号:E7-1-61)のうちI-b区部分。弥生時代後期後半の竪穴建物が確認されている。写真は北から撮影。
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管理番号 d0000082

 

 

上田町遺跡D5-2-24VII 第4面水田全景

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タイトル 上田町遺跡D5-2-24VII 第4面水田全景
ヨミ ウエダチョウイセキD5-2-24VII ダイ4メンスイデンゼンケイ
時代 弥生時代
撮影年月日 1994-11-09
撮影場所 松原市阿保1-1-1
解説 松原市役所の市庁舎建て替えに伴い1991年~1994年にかけ実施された発掘調査(調査番号:D5-2-24)の7工区で確認された弥生時代後期の水田跡。水田跡は洪水砂で覆われていたため畦畔だけでなく人の足跡や稲株跡なども良好な状態で残されていた。写真1枚目の左側に写る道路は国道309号で、南東から撮影。
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管理番号 d0000088

 

つねならむ

【つ】つれづれに 橘庵名医 漢詩詠む

橘庵漢詩(頼春水の父七十の祝い)

北山橘庵漢詩
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タイトル 橘庵漢詩(頼春水の父七十の祝い)
ヨミ キツアンカンシ(ライシュンスイノチチナナジュウノイワイ)
時代 江戸時代
制作年(和暦) 年未詳
制作年(西暦) -
差出人・作者・著者 河内北山彰
宛所 千秋頼
形状 一紙
大きさ(cm) 30.8×60.3
資料解説 河内国丹北郡一津屋村の住人で、医者であり混沌社の詩人でもあった北山橘庵(名は彰、字は元章、号は橘庵)が詠じた漢詩。友人である頼春水(千秋)の父が70歳を迎えたことを祝い作られたもの。冠帽の印は「観頣」とある。
資料所蔵者 松原市(寄贈)
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管理番号 d0000009

 

 

北山橘庵肖像画

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タイトル 北山橘庵肖像画
ヨミ キタヤマキツアンショウゾウガ
時代 江戸時代
制作年(和暦) 年未詳
制作年(西暦) -
差出人・作者・著者 不明
形状 掛幅
大きさ(cm) 本紙165×45.5
資料解説 江戸時代の医師で文人でもある北山橘庵(名は彰、字は元章・世美、号は橘庵)の肖像画。河内国丹北郡一津屋村の住人で享保16年(1731)生まれ、寛政3年(1791)11月15日没。医術を橘元泰に学び、儒学を柳沢淇園に学んだ。医師としての名声は高く丹南藩では士分、狭山藩・岸和田藩では客分の待遇を受ける。文人としては結成間もない大坂の混沌詩社に加わっており、『鶏壇嚶鳴』や『橘庵詩鈔』などの詩作が残されている。北山家は楠木氏の末裔で和田氏とも称していたため、肖像画の羽織には楠氏を示す菊水を基にした家紋が描かれている。
資料所蔵者 個人
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管理番号 d0000059

 

 

北山赤城肖像画

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タイトル 北山赤城肖像画
ヨミ キタヤマセキジョウショウゾウガ
時代 江戸時代
制作年(和暦) 年未詳
制作年(西暦) -
差出人・作者・著者 不明
形状 掛幅
大きさ(cm) 本紙179×46
資料解説 江戸時代の医師である北山元恭(字は元恭、号は赤城)の肖像画。元恭は橘庵の二番目の弟である元寧の実子。子どものいない橘庵の後継となった父・元寧に続き、医業を継いだ。天保9年(1838)3月17日没。
資料所蔵者 個人
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管理番号 d0000059

 

 

北山家墓所

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タイトル 北山家墓所
ヨミ キタヤマケボショ
時代 江戸時代、明治、大正、昭和以降
撮影年月日 2015-09-18
撮影場所 松原市一津屋5-6
解説 江戸時代の一津屋集落の東側に位置する北山家歴代の墓所。宝暦12年(1762)に亡くなった北山橘庵の父・玄昌の墓碑が最も古い。玄昌と橘庵の墓碑を含む4基が整備され、元来の墓碑は墓地北端に並べ置かれている。各人の墓石には事績が刻まれており、元昌の墓誌銘は林東溟の撰文で細合麗王の書、橘庵の墓誌銘は細合麗王の撰文で篠崎三島の書、元寧・元恭の墓誌名は篠崎小竹の撰文である。写真手前の左端が橘庵の墓碑でその右が父・玄昌の墓碑。写真は南西から撮影。
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管理番号 d0000061

 

 

【ね】願いごと かなえてほしき 天神様

天満宮境内絵図

天満宮境内絵図
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タイトル 天満宮境内絵図
ヨミ テンマングウケイダイエズ
時代 江戸時代
制作年(和暦) 天明3年
制作年(西暦) 1783
差出人・作者・著者 久世大和守殿領分河州丹北郡三宅村氏神天満宮社僧梅松院当時無住、年寄 幸八、同 儀右衛門
宛所 御奉行様
形状 一紙
大きさ(cm) 28.5×43.0
資料解説 天明3年(1783)7月に奉行所に差し出されたもの文書。三宅中4丁目に所在する屯倉神社の近世の姿を知ることができる。現在の社務所付近に神宮寺が存在し、観音堂・梅松院・鐘撞堂があったことがわかる。
資料所蔵者 個人
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管理番号 d0000010

 

 

梅松院梵鐘御取調上帳

梅松院梵鐘御取調上帳
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タイトル 梅松院梵鐘御取調上帳
ヨミ バイショウインボンショウオトリシラベアゲチョウ
時代 江戸時代
制作年(和暦) 安政3年
制作年(西暦) 1856
差出人・作者・著者 多羅尾久右衛門当分御預り所河州丹北郡三宅本郷真言宗無本寺梅松院 看住 慈門
宛所 信楽御役所
形状 竪帳
大きさ(cm) 28.2×20.0
資料解説 屯倉神社境内の神宮寺にあった鐘撞堂の梵鐘について差し出したもの。梵鐘の法量や銘文について記されている。近世の神宮寺の姿を知るうえで参考となるものである。冊子の見開き幅は35.5cm。
資料所蔵者 個人
画像の二次利用条件 PDM
管理番号 d0000013

 

 

屯倉神社 社殿

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タイトル 屯倉神社 社殿
ヨミ ミヤケジンジャ シャデン
時代 江戸時代、昭和以降
撮影年月日 2022-02-28
撮影場所 松原市三宅中4-1-8
解説 天慶5年(942)創建と伝わる屯倉神社の社殿で、拝殿の奥に幣殿、拝殿と続く。祭神は左殿が須佐之男命、中殿が菅原道真、右殿が品陀別命。現在の社殿は昭和63年(1988)に新築されたもので、旧社殿は棟札より寛政4年(1792)8月12日の再建であることがわかる。写真は南から撮影。
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管理番号 d0000056

 

 

屯倉神社 神形石

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タイトル 屯倉神社 神形石
ヨミ ミヤケジンジャ カミガタイシ
時代 江戸時代、昭和以降
撮影年月日 2022-02-28
撮影場所 松原市三宅中4-1-8
解説 屯倉神社境内の拝殿西側にある長辺1.8m、短辺1.1m、高さ0.35mの扁平な形の石英安山岩で、奉納者名が刻まれた石垣で囲われている。屯倉神社所蔵『三宅天満宮梅松院縁起』によると、京都から九州の大宰府におもむく途中に菅原道真がこの神形石に座して祖神の天穂日命に祈ったとされる。神形石の傍らに据えられた石柱は表に「神形石」、裏に「文久二年壬戌九月妻屋建之」とある。この石は近隣の土師ヶ塚のものだという伝承もあるが定かではない。
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管理番号 d0000057

 

 

屯倉神社 土師墳碑

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タイトル 屯倉神社 土師墳碑
ヨミ ミヤケジンジャ ハジフンヒ
時代 大正、昭和以降
撮影年月日 2022-02-28
撮影場所 松原市三宅中4-1-8
解説 屯倉神社社務所の庭にある高さ50cm、幅36cm、奥行24cmの自然石。平らな表面には「土師墳」と刻まれている。昭和3年(1928)発行『大阪府史蹟名勝天然記念物 第三冊』には「土師が墳」と呼ばれる場所から移したと記されている。大正12年(1923)発行『中河内郡志』および大正14年(1925)発行『大阪府全志』に字「土師ヶ塚」に据え置かれた1個の自然石の記述が見られるが関係は不明。地名の場所は松原市立三宅小学校より南西の三宅中2丁目あたり。
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管理番号 d0000058

 

 

屯倉神社 外観

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タイトル 屯倉神社 外観
ヨミ ミヤケジンジャ ガイカン
時代 江戸時代、明治、大正、昭和以降
撮影年月日 2023-02-08
撮影場所 松原市三宅中4-1-8
解説 屯倉神社の正面鳥居で、鳥居奥に見返り橋と社殿に続く参道がある。木製朱塗の正面鳥居は中高野街道に面した境内西端の小字名「馬場先」にあり、「天満宮」の扁額を掲げる。屯倉神社が所蔵する『三宅天満宮梅松院縁起』によると、天慶5年(942)8月18日に菅原道真の神像を祀ったことが天満宮としての始まりであるが、もとは菅原氏祖神の天穂日命を祀る穂日の社であったとされる。写真は西から撮影。
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管理番号 d0000083

 

 

【な】難波から 飛鳥にかよう 丹比道

〔大座間池絵図〕

大座間池絵図
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タイトル 〔大座間池絵図〕
ヨミ 〔オオザマイケエズ〕
時代 江戸時代
制作年(和暦) 年未詳
制作年(西暦) -
差出人・作者・著者 なし
宛所 なし
形状 絵図
大きさ(cm) 50.0×60.0
資料解説 大座間池から水を受ける溜池と水路が描かれた近世の水利絵図である。制作年は記されていないが、絵図の注記から寛保元年(1741)以後に制作されたことがわかる。赤色で描かれた街道には名称も記されており、近世の竹内街道周辺の様子を知ことができる。
資料所蔵者 松原市
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管理番号 d0000008

 

 

大和川今池遺跡 難波大道

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タイトル 大和川今池遺跡 難波大道
ヨミ ヤマトガワイマイケイセキ ナニワダイドウ
時代 古墳時代、飛鳥時代、奈良時代
撮影年月日 不明
撮影場所 松原市天美西7、堺市北区常盤町3
解説 大和川下流西部流域下水道今池処理場(現在は)の建設に伴う大和川今池遺跡の発掘調査で検出され「難波大道」と命名された道路遺構。調査区内で南北方向にのびる道路の両端に設けられた側溝が約40m確認されており、調査区の外にさらに続く。側溝の心々距離は約19mで、道路幅員は約18m。道路の築造時期は日本書紀推古21年(613)の条にある「大道」に比定する説もあるが、5世紀~8世紀まで諸説ある。写真は北から撮影。
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管理番号 d0000065

 

 

南新町遺跡C6-3-10 調査区全景

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タイトル 南新町遺跡C6-3-10 調査区全景
ヨミ ミナミシンマチイセキC6-3-10 チョウサクゼンケイ
時代 古墳時代、飛鳥時代、奈良時代
撮影年月日 1997-01-31
撮影場所 松原市南新町3-11
解説 新町南公園の建設に伴う発掘調査(調査番号:C6-3-10)の調査区全景。北西から南東の方向にのびる道路遺構が確認されている。東西方向にのびる奈良時代(8世紀)の溝に切られていることから、道路はこれ以前に築造されたことがわかる。写真は遺構検出時に南東から撮影。
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管理番号 d0000070

 

 

南新町遺跡C6-3-10 調査区西側全景

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タイトル 南新町遺跡C6-3-10 調査区西側全景
ヨミ ミナミシンマチイセキC6-3-10 チョウサクニシガワゼンケイ
時代 古墳時代、飛鳥時代、奈良時代
撮影年月日 1997-03-14
撮影場所 松原市南新町3-11
解説 新町南公園の建設に伴う発掘調査(調査番号:C6-3-10)の調査区西側。北西から南東の方向にのびる幅0.5mの道路側溝が2条確認されており、復元される道路の幅員は5~6mである。写真手前に東西方向にのびる奈良時代(8世紀)の溝が写る。写真は遺構完掘後に南から撮影。
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管理番号 d0000071

 

 

東新町遺跡C5-2-23 調査区南部全景

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タイトル 東新町遺跡C5-2-23 調査区南部全景
ヨミ ヒガシシンマチイセキC5-2-23
時代 古墳時代
撮影年月日 1997-09-25
撮影場所 松原市東新町3-14
解説 東新町3丁目の開発工事に伴う発掘調査(調査番号:C5-2-23)の調査区全景。北西から南東の方向にのびる道路側溝が確認されている。ほぼ同じ位置で何度か溝が掘り直されており、道路が維持管理された結果と考えられる。溝からは古墳時代後期(6世紀)の須恵器提瓶が出土しており、この時期には道路が機能していたと考えられる。写真は北西から撮影。
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管理番号 d0000072

 

 

東新町遺跡C5-2-23 調査区北部全景

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タイトル 東新町遺跡C5-2-23 調査区北部全景
ヨミ ヒガシシンマチイセキC5-2-23 チョウサクホクブゼンケイ
時代 古墳時代、平安時代
撮影年月日 1997-09-25
撮影場所 松原市東新町3-14
解説 東新町3丁目の開発工事に伴う発掘調査(調査番号:C5-2-23)の調査区全景。北西から南東の方向にのびる道路は、出土遺物から古墳時代後期(6世紀)には機能していたと考えられるが、廃絶の時期は不明。ただし、平安時代末期(11世紀)に掘立柱建物跡が道路遺構に重なるように検出されていることから、遅くともこの時期には廃絶していたと考えられる。写真は南から撮影。
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管理番号 d0000073

 

 

立部遺跡F8-1-30 調査区全景

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タイトル 立部遺跡F8-1-30 調査区全景
ヨミ タツベイセキF8-1-30 チョウサクゼンケイ
時代 奈良時代、平安時代
撮影年月日 1998-05-28
撮影場所 松原市立部1
解説 立部1丁目の宅地開発に伴う発掘調査(調査番号:F8-1-30)の調査区全景。南東から北西の方向にのびる溝。調査区は古代の斜向道とされる地割に位置することから、古代道路の側溝の可能性がある。この溝からは奈良時代~平安時代にかけての土器の破片が出土している。写真は南東から撮影。
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管理番号 d0000074

 

 

丹南遺跡E9-2-18 調査区東側全景

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タイトル 丹南遺跡E9-2-18 調査区東側全景
ヨミ タンナンイセキE9-2-18 チョウサクミナミガワゼンケイ
時代 奈良時代
撮影年月日 2001-05-04
撮影場所 松原市丹南4
解説 丹南4丁目の宅地開発に伴う発掘調査(調査番号:E9-2-18)の調査区南側全景。写真手前が掘立柱建物の柱穴群、奥が古代の道路側溝。写真は北から撮影。
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管理番号 d0000075

 

 

丹南遺跡E9-2-18 調査区東側東側道路側溝

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タイトル 丹南遺跡E9-2-18 調査区東側道路側溝
ヨミ タンナンイセキE9-2-18 チョウサクヒガシガワドウロソッコウ
時代 奈良時代
撮影年月日 2001-05-04
撮影場所 松原市丹南4
解説 丹南4丁目の宅地開発に伴う発掘調査(調査番号:E9-2-18)の調査区南側で確認された道路跡。道路側溝は北北東から南南西の方向にのびており、側溝の心々距離は約7m。写真の手前から奥に向かってのびる溝は東側の道路側溝。写真は南から撮影。
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管理番号 d0000076

 

 

丹南遺跡E9-2-18 道路側溝・掘立柱建物跡

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タイトル 丹南遺跡E9-2-18 道路側溝・掘立柱建物跡
ヨミ タンナンイセキE9-2-18 ドウロソッコウ・ホッタテバシラタテモノアト
時代 奈良時代
撮影年月日 2001-05-04
撮影場所 松原市丹南4
解説 丹南4丁目の宅地開発に伴う発掘調査(調査番号:E9-2-18)の調査区の一部。東西方向にのびる幅約4.5mの道路跡で、南北方向にのびる幅約7mの道路跡に接道している。道路の廃絶後に建てられた掘立柱建物が奈良時代のものであるため、それより遡る時代の古道と考えられる。写真は西から撮影。
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管理番号 d0000077

 

 

丹南遺跡E9-2-18 S001溝内埴輪出土状況

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タイトル 丹南遺跡E9-2-18 S001溝内埴輪出土状況
ヨミ タンナンイセキE9-2-18 S001ミゾナイハニワシュツドジョウキョウ
時代 飛鳥時代、奈良時代
撮影年月日 2001-04-11
撮影場所 松原市丹南4
解説 丹南4丁目の宅地開発に伴う発掘調査(調査番号:E9-2-18)で確認された古代の道路側溝(S001溝)に伏せ置かれた円筒埴輪の出土状況。埴輪は道路が交差する地点で出土したことから、道路側溝の暗渠として再利用されたものと考えられる。写真1枚目は東から撮影。
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管理番号 d0000078

 

 

新堂遺跡E6-3-4 東側トレンチ全景

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タイトル 新堂遺跡E6-3-4 東側トレンチ全景
ヨミ シンドウイセキE6-3-4 ヒガシガワトレンチゼンケイ
時代 古墳時代、飛鳥時代
撮影年月日 1982-09-08
撮影場所 松原市新堂2
解説 新堂2丁目の宅地開発に伴う発掘調査(調査番号:E6-3-4)のうち東側部分。幅4~5mの流路に架けられた流路には古墳時代~飛鳥時代(6世紀後半~7世紀初頭)の木橋が確認された。写真は南から撮影。
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管理番号 d0000080

 

 

新堂遺跡E6-3-4 S001流路内木橋

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タイトル 新堂遺跡E6-3-4 S001流路内木橋
ヨミ シンドウイセキE6-3-4 S001リュウロナイキバシ
時代 古墳時代、飛鳥時代
撮影年月日 1982-09-04
撮影場所 松原市新堂2
解説 新堂2丁目の宅地開発に伴う発掘調査(調査番号:E6-3-4)で確認されたS001自然流路の木橋出土状況。複数の板材と丸太を積み重ねて水流を堰き止めないような構造となっている。流路からは古墳時代~飛鳥時代(6世紀後半~7世紀初頭)の土器と古墳時代の埴輪が出土している。写真は南西から撮影。
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管理番号 d0000081

 

 

【ら】来迎寺 藩主の墓地や 大いぶき

来迎寺 山門

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タイトル 来迎寺 山門
ヨミ ライゴウジ サンモン
時代 江戸時代
撮影年月日 2017-12-12
撮影場所 松原市丹南3-1-22
解説 融通念佛宗寺院の諸佛山護念院来迎寺(丹南本山来迎寺)の山門(表大門)で、天保14年(1843)に再建された切妻造本瓦葺の1間四脚門。棟札は未確認であるが、天保14年の上棟式を触れ廻る内容の古文書が残されている。また、この時に山門屋根裏へ納められた観音経が今も残る。
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管理番号 d0000034

 

 

来迎寺 本堂

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タイトル 来迎寺 本堂
ヨミ ライゴウジ ホンドウ
時代 江戸時代
撮影年月日 2017-12-12
撮影場所 松原市丹南3-1-22
解説 融通念佛宗寺院の諸佛山護念院来迎寺(丹南本山来迎寺)の本堂で、来迎寺10世太純が住持を務めていた享保17年(1732)に再建されたものである。6間半四方の周りに1間通りの縁庇をめぐらす。堂内は前面3間を外陣として、後方に内陣をとる。写真は南から撮影。
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管理番号 d0000033

 

 

来迎寺本堂棟札(拾箇郷御堂造立)

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タイトル 来迎寺本堂棟札(拾箇郷御堂造立)
ヨミ ライゴウジホンドウムナフダ(ジュッカゴウミドウゾウリュウ)
時代 江戸時代
制作年(和暦) 承応2年
制作年(西暦) 1653
作者 三別時中並門徒衆中
形状 木札
大きさ(cm) 高さ110.8、最大幅23.6
資料解説 承応2年(1653)に来迎寺の本堂が建立された際に制作された棟札。表面には、清水村良清西堂が住持を務めた時に十箇郷別時の御堂として建立されたことが記されており、他に大檀那、願主、棟梁、大工の名も記されている。裏面には、本堂の建立を契機として一定期間で寺地を移す挽寺という制度が廃止されたことが後世の筆で記されている。
資料所蔵者 来迎寺
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管理番号 d0000038

 

高木正次五輪塔

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タイトル 高木正次五輪塔
ヨミ タカギマサツグゴリントウ
時代 江戸時代
制作年(和暦) 寛永7年
制作年(西暦) 1630
作者 -
形状 石造物
大きさ(cm) 高さ215.0、幅103.
資料解説 寛永7年(1630)に没した丹南藩初代藩主高木正次の墓に建てられた五輪塔。正面には「高木主水正/従五位下源家/浄照大禅定門/寛永七庚午暦/十一月晦日」とある。
資料所蔵者 来迎寺
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管理番号 d0000035

 

来迎寺のいぶき

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タイトル 来迎寺のいぶき
ヨミ ライゴウジノイブキ
時代 不明
撮影年月日 2015-12-19
撮影場所 松原市丹南3-1-22
解説 ヒノキ科ビャクシン属の針葉樹。融通念佛宗寺院である来迎寺の境内にある。樹齢は500年以上で、樹高15m、直径1.27m、幹周り4.1m、枝張り12m。昭和56年(1981)6月1日に大阪府指定天然記念物に指定されている。
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管理番号 d0000037

 

 

【む】むかしより しめす石標 高野みち

阿保茶屋徳右衛門水茶屋料先取覚

阿保茶屋徳右衛門水茶屋料先取覚
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タイトル 阿保茶屋徳右衛門水茶屋料先取覚
ヨミ アボチャヤトクエモンミズジャヤリョウサキドリオボエ
時代 江戸時代
制作年(和暦) 文化13年
制作年(西暦) 1816
差出人・作者・著者 阿保茶屋徳右衛門、三宅村 取次 清左衛門、同 吉助
宛所 三宅村庄屋・年寄中
形状 継紙
大きさ(cm) 25.0×38.1
資料解説

三宅村が用水を引取る作業の際に休憩所としてた阿保茶屋の徳右衛門が弟に茶屋を譲る際に三宅村と交わした覚書である。この資料から、江戸時代に長尾街道と中高野街道の交わる地点の周辺が阿保茶屋と呼ばれていたことがわかる。

資料所蔵者 個人
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管理番号 d0000012

 

 

えゐのおくやま

【え】駅家には 清水もありし 大津道

清水遺跡B5-1-22 調査区東側全景

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タイトル 清水遺跡B5-1-22 調査区東側全景
ヨミ シミズイセキB5-1-22 チョウサクヒガシガワゼンケイ
時代 古墳時代
撮影年月日 2001-02-23
撮影場所 松原市北新町6-19
解説 北新町6丁目での発掘調査(調査番号:B5-1-22)のうち。幅約0.5mの溝で区画された敷地内に掘立柱建物が複数確認された。区画溝と建物群は古墳時代後期(6世紀後半)のもので、およそ南西-北東方向に主軸をとる。区画溝はこの写真奥に写る長尾街道に向かってのびる。長尾街道に先行する正方位の古代道路の存在を考える上で参考となる発掘成果。写真は北西から撮影。
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管理番号 d0000079

 

 

【ゐ】井筒は 弘法の井戸 村すくう

準備中

【の】野に多く 伝説の池 親王池址

河内名所鑑 四

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タイトル 河内名所鑑 四
ヨミ カワチメイショカガミ 4
時代 江戸時代
制作年(和暦) 年未詳
制作年(西暦) -
差出人・作者・著者 不明
宛所 なし
形状 版本
大きさ(cm) 25.4×17.5
資料解説 延宝7年(1679)に出版された『河内鑑名所記』を改訂し後に出版されたもの。複数巻のうちの1冊であり、刊記・奥付がないため、出版年は不明である。稚児ヶ池を描いた挿図には、阿保親王御廟として河内大塚山古墳も描かれている。
資料所蔵者 松原市
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管理番号 d0000020

 

 

【お】大庄屋 昔しのばる 門がまえ

準備中

【く】楠大樹 千年と伝う 阿保神社

阿保神社 外観

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タイトル 阿保神社の外観
ヨミ アオジンジャ ガイカン
時代 江戸時代、明治、大正、昭和以降
撮影年月日 2023-02-08
撮影場所 松原市阿保5-4-19
解説 海泉池の北側にある阿保集落に所在する神社で祭神は菅原道真。写真手前の石造大鳥居は令和4年1月の再建でそこから伸びる参道の先に拝殿があり、その奥に幣殿、本殿と続く。写真は東から撮影。
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管理番号 d0000062

 

 

阿保神社のくす

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タイトル 阿保神社のくす
ヨミ アオジンジャノクス
時代 -
撮影年月日 2015-08-04
撮影場所 松原市阿保5-4-19
解説 クスノキ科の常緑高木で、阿保神社境内の本殿南側にある。樹齢は推定300年以上で、樹高20m、幹周り4.85m。神社境内には3本のくすがあるが、この大くすのきは阿保親王お手植えで樹齢一千年を越えると伝えられる。
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管理番号 d0000063

 

 

【や】大和川 しずかに流る 川違え

大和川筏橋ノ儀ニ付相定置一札

大和川筏橋ノ儀ニ付相定置一札
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タイトル 大和川筏橋ノ儀ニ付相定置一札
ヨミ ヤマトガワイカダバシノギニツキアイサダメオクイッサツ
時代 江戸時代
制作年(和暦) 安永5年
制作年(西暦) 1776
差出人・作者・著者

河内国丹北郡西阿保村 庄屋 長兵衛、年寄 彦平、同 新右衛門、同国同郡東阿保村 庄屋 仁兵衛、年寄 武右衛門、同 嘉兵衛、同国同郡立部村 庄屋 九兵衛、年寄 源右衛門、同 元右衛門、同 吉右衛門、同国同郡松原村之内岡 庄屋 四郎右衛門、年寄 吉兵衛、同 次左衛門、同 友七、同国同郡松原村之内新堂 庄屋 元右衛門、年寄 八右衛門、同 傳右衛門、同 与三兵衛、同国同郡松原村之内上田 庄屋 八郎右衛門、年寄 市兵衛、同 武兵衛、同 傳兵衛、同国同郡三宅村 庄屋 与次右衛門、同 平兵衛、年寄 太介、角倉与一様御代官所同国同郡同村 庄屋 善左衛門、年寄 三郎衛門、久世出雲守様御領分同国同郡同村 年寄 幸八、同 長兵衛、高木主水正様御領分河内国丹南郡丹南村 庄屋 直次郎

宛所 なし
形状 継紙
大きさ(cm) 28.5×131.5
資料解説 大和川の付け替えで南北に分断された中高野街道筋に筏橋を設置することを願い出た文書。筏橋の設置にあたり、費用負担などについて12か村で定めた決まりが記されている。この書状から、夜間や洪水時には渡し船を出すことができずに交通が遮断され、街道沿いの村々に影響があったことがわかる。
資料所蔵者 個人
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管理番号 d0000011

 

 

〔堤ニ杭打候義〕

〔堤ニ杭打候義〕
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タイトル 〔堤ニ杭打候義〕
ヨミ 〔ツツミニクイウチソウロウノギ〕
時代 江戸時代
制作年(和暦) 申年(宝永元年)
制作年(西暦) 1704
差出人・作者・著者 長谷川六兵衛、万年長十郎
宛所 なし
形状 継紙
大きさ(cm) 15.0×100.1
資料解説 宝永元年(1704)に記された新大和川両側堤、西除川両側堤、大乗川両側堤、十三間川拙足(掘り足しの間違いと思われる)堤の管理についての文書。各村の庄屋年寄が立ち会い村境を決めて杭を打ち、日常的に管理する範囲を明示することや堤破損時の報告義務などについて記されている。
資料所蔵者 個人
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管理番号 d0000017

 

 

乍恐書付を以御訴詔申上候(洪水ニ而落堀橋樋悉潰候ニ付)

乍恐書付を以御訴詔申上候(洪水ニ而落堀橋樋悉潰候ニ付)
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タイトル 乍恐書付を以御訴詔申上候(洪水ニ而落堀橋樋悉潰候ニ付)
ヨミ オソレナガラカキツケヲモッテゴソショウモウシアゲソウロウ(コウズイニテオチボリハシヒコトゴトクツブレソウロウニツキ)
時代 江戸時代
制作年(和暦) 享保2年
制作年(西暦) 1717
差出人・作者・著者 川下村々
宛所 堤御奉行様
形状 継紙
大きさ(cm) 23.6×67.5
資料解説 享保2年(1717)7月に堤奉行へと差し出された文書。享保元年6月の洪水により落堀川筋橋樋が潰れ、橋樋の切所から大和川へ悪水が頻繁に落ちる事態に対し、川上の村々が願い出た解決方法は不要であり別の方法を採るべきであると川下の村々が伝えたもの。
資料所蔵者 個人
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管理番号 d0000018

 

 

城連寺村御田畑大絵図

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タイトル 城連寺村御田畑大絵図
ヨミ ジョウレンジムラデンパタオオエズ
時代 江戸時代
制作年(和暦) 享保13年
制作年(西暦) 1728
差出人・作者・著者 正勝より五代当所庄屋 久右衛門正伴
宛所 なし
形状 絵図横半帳
大きさ(cm) 16.5×22.7
資料解説

河内国丹北郡城連寺村の田畑を描いており、複数の絵図を綴じ帳面の形状としたもの。ほぼ全ての土地1筆ごとに地種・反別・石高・耕作者が記載されている。この絵図の最初に記された「覚」からこの絵図が享保元年に起きた大和川の洪水による水損が原因で作り直されたものであることがわかる。

資料所蔵者 個人
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管理番号 d0000019

 

 

大和川筏橋ノ儀ニ付東瓜破村等願書

大和川筏橋ノ儀ニ付東瓜破村等願書
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タイトル 大和川筏橋ノ儀ニ付東瓜破村等願書
ヨミ ヤマトガワイカダバシノギニツキヒガシウリワリムラナドネガイガキ
時代 江戸時代
制作年(和暦) 安永5年
制作年(西暦) 1776
差出人・作者・著者 久世出雲守殿領分、河州丹北郡東瓜破村庄屋左兵衛、同重五郎、右同断、同国同郡三宅村庄屋代年寄幸八、御代官角倉与市殿御支配所、同国同郡同村庄屋善左衛門、秋元摂津守殿領分、同国同郡同村庄屋与次右衛門、同平兵衛、右同断、同国同郡西瓜破村庄屋与三兵衛、右同断、同国同郡別所村庄屋定右衛門、右同断、同国同郡西阿保村庄屋長兵衛、右同断、同国同郡東阿保村庄屋仁兵衛、右同断、同国同郡松原村岡庄屋四郎右衛門、右同断、同国同郡松原村上田庄屋八郎右衛門、右同断、同国同郡松原村新堂庄屋元右衛門、右同断、同国同郡立部村庄屋九兵衛、高木主水正殿領分、同国丹南郡丹南村庄屋直次郎
宛所 なし
形状 継紙
大きさ(cm) 28.4×320.7
資料解説 新大和川の東瓜破村領に仮の筏橋を設置することを願い出た書状。13か村の連名で差し出されたもので、29か村が連印している。大和川の付け替えにより中高野街道が分断されることで生じた問題を記し訴えている。
資料所蔵者 個人
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管理番号 d0000021

 

 

新大和川引取樋

新大和川引取樋
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タイトル 新大和川引取樋
ヨミ シンヤマトガワヒキトリヒ
時代 江戸時代
制作年(和暦) 年未詳
制作年(西暦) -
差出人・作者・著者 なし
宛所 なし
形状 絵図
大きさ(cm) 31.2×199.5、貼紙部分の縦46.3
資料解説 宝永元年に付け替えられた新大和川に設置された樋や新田を描いた絵図。作成年は記されていないが、河口付近の南島新田が開発されていることから元文2年(1737)以降に作成されたと考えられる。
資料所蔵者 個人
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管理番号 d0000022

 

 

乍恐口上書を以奉願上候(水請堤被為仰付候ニ付)

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タイトル 乍恐口上書を以奉願上候(水請堤被為仰付候ニ付)
ヨミ オソレナガラコウジョウショヲモッテネガイアゲタテマツリソウロウ(ミズウケヅツミオオセツケサセラレソウロウニツキ)
時代 江戸時代
制作年(和暦) 宝永元年
制作年(西暦) 1704
差出人・作者・著者 城連寺村 庄屋、同村 年寄、同 百姓
宛所 御奉行様
形状 継紙
大きさ(cm) 28.1×64.5
資料解説 宝永元年(1704)10月に城連寺村から奉行へと提出された文書。大和川の付け替えにより水害を受け易くなったため、水害対策と高所への集落移転を願い出たもの。裏面には、この願書に先立ち願書を提出したが何も沙汰がなかった経緯が記されている。
資料所蔵者 個人
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管理番号 d0000024

 

 

乍恐書付以御願申上候(新川以後居宅へ水入流浪之義)

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タイトル 乍恐書付以御願申上候(新川以後居宅へ水入流浪之義)
ヨミ オソレナガラカキツケヲモッテオンネガイモウシアゲソウロウ(シンカワイゴキョタクヘミズイリルロウノギ)
時代 江戸時代
制作年(和暦) 宝永5年
制作年(西暦) 1708
差出人・作者・著者 城連寺村 庄屋 久右衛門、同 八郎兵衛、同村 年寄 五兵衛、同 庄兵衛、小百姓 忠左衛門、外22名
宛所 なし
形状 継紙
大きさ(cm) 28.1×81.8
資料解説

大和川付替え以後、城連寺村の田畑や集落が頻繁に浸水被害に遭うため、富田新田へ村を移すことを願い出た書状。この書状には、宝永元年(1704)10月の工事完成後から宝永5年の夏までに14~15回の浸水被害があり、付け替え後に68軒のうち20軒が他所へ引越したことなどが記されている。

資料所蔵者 個人
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管理番号 d0000025

 

 

現在の大和川

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タイトル 現在の大和川
ヨミ ゲンザイノヤマトガワ
時代 昭和以降
撮影年月日 2015-08-21
撮影場所 松原市天美北5-10
解説 江戸時代の宝永元年(1704)に付け替えられた大和川の現在の様子。撮影場所は、江戸時代には河内国丹北郡城連寺村で、奥に写る対岸の堤までが村の範囲あった。そのため、現在も大和川を挟んだ北側も松原市域となっている。写真左は近鉄南大阪線の線路と車両で、写真は南から撮影。
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管理番号 d0000039

 

 

大和川掘鑿以前城連寺村村図

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タイトル 大和川掘鑿以前城連寺村村図
ヨミ ヤマトガワクッサクイゼンジョウレンジムラムラズ
時代 江戸時代
制作年(和暦) 延宝7年
制作年(西暦) 1679
差出人・作者・著者 城連寺村 34名、出作百姓住道村 29名、出作百姓矢田部村 1名、出作百姓川田村 1名
宛所 三輪弥惣兵衛
形状 絵図
大きさ(cm) 202.6×175.4
資料解説

延宝7年(1679)10月に作成された河内国丹北郡城連寺村の絵図。当時の城連寺村は幕府領と旗本小出氏領の相給地で、絵図は小出氏領での検地にともない作成された。宛先にある三輪弥三兵衛は小出氏領の代官と考えられる。地目ごとに塗分けられており、小出氏領については田畑は一筆ごとに等級・種別・反別・石高・人名が記されているが、幕府領については「城連寺村わけ/平野伊兵衛殿御代官所」とのみ記されている。裏面に題箋がある。宝永元年(1704)の大和川付け替えとその後の新田開発によって村の景観が大きく変わる前の状況を知るうえで参考となるものである。

資料所蔵者 個人
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管理番号 d0000046

 

 

大和川掘鑿以後城連寺村々図

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タイトル 大和川掘鑿以後城連寺村村図
ヨミ ヤマトガワクッサクイゴジョウレンジムラムラズ
時代 江戸時代
制作年(和暦) 享保14年
制作年(西暦) 1729
差出人・作者・著者 冨田庄城連寺村 庄屋 久右衛門
宛所 なし
形状 絵図
大きさ(cm) 179.0×272.5
資料解説

河内国丹北郡城連寺村の享保14年(1729)の現況を描いた絵図。宝永元年(1704)に大和川が付け替えられ、村の北半分が川床となり多くの田地が潰れたことを示す目的で作成された。裏書に絵図作成の経緯が記されており、題箋もある。絵図中には丑改新田や雪池などの開発についても記されており、大和川付け替え後の新田開発の状況を知る上でも参考となる。

資料所蔵者 個人
画像の二次利用条件 PDM
管理番号 d0000046

 

 

けふこえて

【け】けんね塚 ながれついたと 童唄

準備中

【ふ】古池に 河合だんじり いせいよく

河合遺跡 遠景

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タイトル 河合遺跡 遠景
ヨミ カワイイセキ エンケイ
時代 昭和以降
撮影年月日 2009-07-23
撮影場所 松原市河合
解説 松原市学校給食センターの建設に伴う河合遺跡の発掘調査(調査番号:C6-3-14)での発掘調査に伴い撮影された空中写真(斜め写真)。写真左奥に西除川が写る。写真は西から撮影。
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管理番号 d0000066

 

 

河合遺跡C6-3-14 調査区全景垂直モザイク写真

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タイトル 河合遺跡C6-3-14 調査区全景垂直モザイク写真
ヨミ カワイイセキC6-3-14 チョウサクゼンケイスイチョクモザイクシャシン
時代 奈良時代、平安時代
撮影年月日 2010-00-00
撮影場所 松原市河合5-238
解説 松原市立学校給食センターの建設に伴う河合遺跡の発掘調査(調査番号:C6-3-14)で調査区ごとに複数回撮影した写真を接合(モザイク)したもの。方位は上が北。調査では奈良時代の官衙建物(長舎)が検出されており、この写真では南北55m、東西23m以上の空間を「コ」の字上に囲うように建物の柱穴が並んでいることが確認できる。
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管理番号 d0000067

 

 

河合遺跡C6-3-14 落ち込み(SX2019)出土土器

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タイトル 河合遺跡C6-3-14 落ち込み(SX2019)出土土器
ヨミ カワイイセキ オチコミ(SX2019)シュツドドキ
時代 奈良時代、平安時代
制作年(和暦) 年未詳
制作年(西暦) -
作者 不明
形状 須恵器、土師器
大きさ(cm) -
資料解説 松原市立学校給食センターの建設に伴う河合遺跡の発掘調査(調査番号:C6-3-14)で、落ち込み(SX2019)から出土した奈良時代から平安時代にかけての須恵器と土師器。この調査で確認された官衙建物(長舎)の廃絶後に落ち込みへ土器が廃棄されたと考えられる。
資料所蔵者 松原市
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管理番号 d0000068

 

【え】恵我の地に 古戦場残す 若林

恵我村地誌資料 第一輯

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タイトル 恵我村地誌資料 第一輯
ヨミ エガムラチシシリョウ ダイ1シュウ
時代 近代
制作年(和暦) 昭和9年
制作年(西暦) 1934
差出人・作者・著者 郷土調査研究会 編、恵我尋常高等小学校郷土調査研究会 発行
形状 冊子
資料解説 恵我尋常高等小学校の郷土調査研究会(代表 本荘彦三郎)により編さんされた地誌。昭和初期の大阪近郊農村の状況を知るうえで参考となる資料。恵我村は明治22年(1889)4月1日の町村制施行により大堀村、小川村、一津屋村、別所村、若林村の5か村が合併して成立した村。昭和30年(1955)2月1日に中河内郡の4か村と合併し松原市となる。著作権保護期間満了のため、国立国会図書館デジタルコレクションで公開中。
資料所蔵者 国立国会図書館

 

【て】敵をうつ かねつき山は とりであと

準備中

あさきゆめみし

【さ】西方寺 平安朝の 夢やどし

準備中

【き】きなこつけ 半夏生の赤ねこ 田植すむ

準備中

【ゆ】雄大な 大塚山古墳 濠広し

河州丹北郡東大塚村領内絵図

河州丹北郡東大塚村領内絵図
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タイトル 河州丹北郡東大塚村領内絵図
ヨミ カシュウタンボクグンヒガシオオツカムラリョウナイエズ
時代 江戸時代
制作年(和暦) 年不詳
制作年(西暦) -
差出人・作者・著者 なし
宛所 なし
形状 絵図
大きさ(cm) 31.0×47.0
資料解説 近世の東大塚村の姿を知るうえで参考となる絵図で、制作年は記されていない。簡略な表現であるが、集落のあった河内大塚山古墳の東半分が描かれている。
資料所蔵者 個人
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管理番号 d0000014

 

 

河州丹北郡西大塚村領内絵図

河州丹北郡西大塚村領内絵図
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タイトル 河州丹北郡西大塚村領内絵図
ヨミ カシュウタンボクグンニシオオツカムラリョウナイエズ
時代 江戸時代
制作年
(和暦)
年不詳
制作年
(西暦)
-
差出人・作者・著者 なし
宛所 なし
形状 絵図
大きさ
(cm)
31.0×47.0
資料解説 近世の西大塚村の姿を知るうえで参考となる絵図で、制作年は記されていない。簡略な表現であるが、村領である河内大塚山古墳の西半分が描かれている。後円部には赤色で天満宮の社殿が描かれており、「宮」と記されている。
資料所蔵者 個人
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管理番号 d0000015

 

 

大塚山古墳 全景

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タイトル 大塚山古墳 全景
ヨミ オオツカヤマコフン ゼンケイ
時代 古墳時代
撮影年月日 不明
撮影場所 松原市西大塚1、羽曳野市南恵我之荘7
解説 松原市西大塚から羽曳野市南恵我之荘にまたがる前方後円墳で、宮内庁の陵墓参考地。日本各地の大塚山古墳と区別するために河内大塚山古墳と呼ばれることもある。墳丘長は335mで、全国5番目の規模を誇る。6世紀後半頃の築造と考えられている。江戸時代には来目皇子墓あるいは阿保親王墓と伝承されていた。写真は北西から撮影。写真の左側に近畿日本鉄道南大阪線と主要地方道堺大和高田線が写る。
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管理番号 d0000069

 

 

【め】名水や 酒屋権現 出でし井戸

酒屋神社 外観

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タイトル 酒屋神社 外観
ヨミ サカヤジンジャ ガイカン
時代 江戸時代、明治、大正、昭和以降
撮影年月日 2023-02-08
撮影場所 松原市三宅中4-1-8
解説 明治40年(1907)4月8日に屯倉神社へ合祀された延喜式内社で、三宅神社本殿の北側に社号石標や石灯篭とともに移された。江戸時代には中臣酒屋神社と呼ばれており、旧社地は三西町会児童公園(松原市三宅中6丁目2番2号)となっている。写真は南から撮影。
画像の二次利用条件 CC BY (表示)クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
管理番号 d0000084

 

 

酒屋神社 社殿

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タイトル 酒屋神社 社殿
ヨミ サカヤジンジャ シャデン
時代 江戸時代、明治、大正、昭和以降
撮影年月日 2023-02-08
撮影場所 松原市三宅中4-1-8
解説 明治40年(1907)4月8日に屯倉神社へ合祀された延喜式内社で、現在は三宅神社境内の本殿北側に座す。祭神は津速魂命(酒屋権現)。『日本三代実録』によると、貞観7年(865)12月に従五位下を授かる。社殿は昭和63年(1988)に新築。写真は南から撮影。
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管理番号 d0000085

 

 

【み】三宅木綿 夜なべ糸つむ 機を織る

〔河州丹北郡三宅村絵図〕

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タイトル 〔河州丹北郡三宅村絵図〕
ヨミ 〔カシュウタンボクグンミヤケムラエズ〕
時代 江戸時代
制作年(和暦) 享保5年
制作年(西暦) 1720
差出人・作者・著者 河州丹北郡内山七兵衛殿代官所三宅村 庄屋 平治、年寄 喜兵衛、同 善左衛門、同 四郎左衛門、同国同郡秋元伊賀守殿御知行所 西阿保村 庄屋 藤蔵、年寄 彦平、東阿保村 庄屋 仁兵衛、年寄 八兵衛、絵師 人見長右衛門
宛所 なし
形状 絵図
大きさ(cm) 175.4×202.6
資料解説

河内国丹北郡の三宅村と東阿保村・西阿保村による海泉池をめぐる相論にともない享保5年(1720)12月に作成された相絵図の控え。松原村上田や西大塚村から三宅村までに存在するため池や水路といった水利施設が詳細に描かれている。江戸時代の阿保村と三宅村の灌漑の様子を知るうえで参考となる資料であるが、街道や神社も描かれていることから中高野街道(摂州大坂海道・高野山街道)や長尾街道(泉州堺街道・大和街道)の様子を知るうえでも参考となる。 裏書には、相論の場所を吟味し絵図に間違いがないため各村の庄屋と年寄が署名押印し差し出したことが記されており、その左には絵師として人見長右衛門の名が記さている。

資料所蔵者 個人
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管理番号 d0000048

 

 

【し】柴かつぐ 天美小の 金次郎像

ゑひもせす

【ゑ】絵馬たくし 阿麻美社に 神たのみ

準備中

【ひ】一津屋に 残るトリキは 昔人の知恵

準備中

【も】杜の島 鳥居が浮かぶ 弁天池

準備中

【せ】全国に ひびく釣鐘 河内鋳物師

丹南遺跡 遠景

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タイトル 丹南遺跡 遠景
ヨミ タンナンイセキ エンケイ
時代 昭和以降
撮影年月日 1999-00-00
撮影場所 松原市岡、松原市丹南
解説 来迎寺(融通念佛宗)の東隣で実施された丹南遺跡の発掘調査(調査番号:E8-3-24)に伴い撮影された空中写真(斜め写真)。写真は北から撮影。写真の手前には東西方向にのびる竹内街道が、奥には黒姫山古墳(堺市美原区黒山)と阪和自動車道が見える。
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管理番号 d0000049

 

 

立部遺跡F8-3-5 調査区西側全景

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タイトル 立部遺跡F8-3-5 調査区西側全景
ヨミ タツベイセキF8-3-5 チョウサクニシガワゼンケイ
時代 平安時代、鎌倉時代
撮影年月日 1993-12-02
撮影場所 松原市立部5-8-3
解説 市営柏木住宅の建設に伴い実施された発掘調査(調査番号:F8-3-5)の調査区西側部分。平安時代後期~鎌倉時代の粘土採掘土坑や掘立柱建物跡などが確認された。粘土採掘土坑には鉄滓や炉壁の破片など鋳造に関係する遺物が廃棄されていた。写真左奥の建物は府営松原立部住宅で、写真は東から撮影。
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管理番号 d0000053

 

 

立部遺跡F8-3-5 粘土採掘土坑群

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タイトル 立部遺跡F8-3-5 粘土採掘土坑群
ヨミ タツベイセキF8-3-5 ネンドサイクツドコウグン
時代 平安時代、鎌倉時代
撮影年月日 1993-12-03
撮影場所 松原市立部5-8-3
解説 市営柏木住宅の建設に伴い実施された発掘調査(調査番号:F8-3-5)で確認された平安時代後期(11世紀)の粘土採掘土坑群。これら土坑に廃棄された鉄滓は鋳物製造に伴う廃棄物であるため、河内・丹南鋳物師の工房が調査区の付近に存在した可能性がある。写真奥の道路は竹内街道で、写真は南東から撮影。
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管理番号 d0000054

 

 

立部遺跡F8-3-5 掘立柱建物跡

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タイトル 立部遺跡F8-3-5 掘立柱建物跡
ヨミ タツベイセキF8-3-5 ホッタテバシラタテモノアト
時代 平安時代、鎌倉時代
撮影年月日 1993-12-03
撮影場所 松原市立部5-8-3
解説 市営柏木住宅の建設に伴い実施された発掘調査(調査番号:F8-3-5)で確認された鎌倉時代(13世紀)の掘立柱建物跡と井戸。写真左の道路は竹内街道。鎌倉時代の掘立柱建物が道路の方へとさらに続くことから、江戸時代以前の竹内街道のルートを考える上で参考となる。写真は南西から撮影。
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管理番号 d0000055

 

 

丹南遺跡E9-2-35 S051廃棄土坑

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タイトル 丹南遺跡E9-2-35 S051廃棄土坑
ヨミ タンナンイセキE9-2-35 S051ハイキドコウ
時代 室町時代
撮影年月日 2006-04-19
撮影場所 松原市丹南4
解説 丹南4丁目の宅地開発に伴う発掘調査(調査番号:E9-2-35)で確認された室町時代(15世紀)の廃棄土坑。廃棄された遺物は鋳物を製作する過程で排出される鋳型や溶解炉の破片などであることから、当時この一帯を拠点とした河内鋳物師の工房が周辺に存在した可能性がある。写真はS051廃棄土坑をはじめとする遺構を検出した状況で、東から撮影。
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管理番号 d0000089

 

 

丹南遺跡E9-2-35 S051廃棄土坑遺物出土状況

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タイトル 丹南遺跡E9-2-35 S051廃棄土坑遺物出土状況
ヨミ タンナンイセキE9-2-35 S051ハイキドコウイブツシュツドジョウキョウ
時代 室町時代
撮影年月日 2006-05-01
撮影場所 松原市丹南4
解説 丹南4丁目の宅地開発に伴う発掘調査(調査番号:E9-2-35)で確認された室町時代(15世紀)の廃棄土坑。廃棄された遺物は鋳物を製作する過程で排出される鋳型や溶解炉の破片などであることから、当時この一帯を拠点とした河内鋳物師の工房が周辺に存在した可能性がある。写真はS051廃棄土坑の遺物出土状況。
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管理番号 d0000090

 

【す】住吉の 神にささげし 『積翠集』

妻屋仙桂新兵衛ニ残置制詞之趣

妻屋仙桂新兵衛ニ残置制詞之趣
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タイトル 妻屋仙桂新兵衛ニ残置制詞之趣
ヨミ ツマヤセンケイシンベエニノコシオクセイシノオモムキ
時代 江戸時代
制作年
(和暦)
年未詳
制作年
(西暦)
-
差出人・作者・著者 仙桂秀継
宛所 新兵衛殿
形状 継紙
大きさ
(cm)
32.0×176.0
資料解説 河内国丹北郡三宅村のうち幕府領の庄屋をつとめた妻屋秀員の実父である新兵衛秀継が書き残した遺訓。10か条と後書から成る。秀継は、勢州亀山城主石川主殿頭の家老役である加藤新五右衛門由生の5男で、元禄10年(1697)没。
資料所蔵者 個人
画像の二次利用条件 PDM
管理番号 d0000023

 

 


 

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