市内の古墳

更新日:2021年12月1日
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大塚山古墳【おおつかやまこふん】

 松原市と羽曳野市との市境界にまたがって位置する古墳です。墳丘長335メートル、前方部幅230メートル、後円部直径185メートルを誇る大前方後円墳で、墳丘長では、全国で5番目に大きい前方後円墳です。墳丘の外周には周濠が廻り、周濠を含めた全長は420メートルにも及びます。また周濠の外には、周庭帯と呼ばれる古墳の外周をとりまく余地帯の存在も土地地割から判別できますので、本来の古墳の規模はさらに大きなものになるようです。現在、この古墳は宮内庁により陵墓参考地として管理されているため、内部の状況を詳しく知ることはできませんが、外観すると前方部は低く平らで、後円部に段築などはないように見えます。
 ただし明治時代まで前方部に大塚村という村があり、後円部頂には菅原神社が鎮座していたこと、中世には、丹下城と呼ばれる城砦として利用されていたことなどを考えると、築造当時の姿をそのまま残しているのではないとも考えられます。内部施設については知る由もありませんが、かつて後円部墳丘斜面に「ごぼ石」といわれる巨石が露呈していたらしいので、横穴式石室を備えている可能性が大きいのではないかと思われます。
 かつては雄略天皇陵とする説もありましたが、前方後円墳の形状や横穴式石室を備えていることなどから、雄略天皇の時代よりももう少し時代が下る古墳時代後期の築造ではないでしょうか。

大塚山古墳

大塚山古墳航空写真(北西から)

一津屋古墳(一津屋1号墳跡)【ひとつやこふん】

 一津屋5丁目に位置する古墳で、現在、厳島神社本殿が鎮座する小丘が、古墳墳丘の名残で、本殿裏に位置する池が周濠の名残であろうと考えられています。戦国時代に当所に一津屋城と呼ばれる城砦が築かれたことや周辺の開発が奈良時代以降にすでに始まっていたことなどから、築造当時の姿は早くに失われたのではないでしょうか。現在のところ発掘調査は行われていません。また周辺の調査でも当古墳の内容を知る資料が乏しいため、その詳細については今のところよくわかっていません。
 なお一津屋地域では、当古墳のほかに発掘調査によって、今はなき古墳の存在が明らかになってきています。おそらくそれらは一群で古墳群を形成するものと思われます。そこで当古墳を一津屋1号墳とも称することにします。

川ノ上古墳跡【かわのうえこふん】

 一津屋古墳の北方で、発掘調査により確認された古墳です。発掘調査では周濠の一部を発見し、全長30メートル程度の前方後円墳らしいことがわかりました。濠の中からは、円筒埴輪をはじめ馬形埴輪、蓋形埴輪などの埴輪や須恵器杯などが出土し、古墳時代中期に築造されたものと考えられます。また奈良時代の土器も同時に出土したことから、当古墳はすでに奈良時代には破壊されていたことがわかりました。

一津屋2号墳跡(ひとつや2ごうふん)

 発掘調査で、周濠の一部を発見しました。一辺5メートル以上の方墳と考えられます。円筒埴輪がともに出土し、古墳時代後期の築造と考えられます。

一津屋3号墳跡(ひとつや3ごうふん)

 発掘調査で、周濠の一部を発見しました。部分的な調査であったため、規模はよくわかりませんでしたが方墳であった可能性が高いと思われます。円筒埴輪が出土しており、古墳時代後期の築造と考えられます。

狐塚古墳跡【きつねづかこふん】

 天美西1・5・6丁目にまたがり位置する古墳跡です。現在は主要地方道大阪狭山線道路建設により残っていませんが、かつてはここに狐塚と呼ばれる小丘がありました。古い航空写真で確認すると、およそ全長30メートル程度の前方後円墳であったのではなかろうかと思われます。発掘調査が行われていませんので、古墳の時期など詳しいことはわかっていません。

権現山古墳跡【ごんげんやまこふん】

 三宅中6丁目に位置する古墳跡です。かつて権現山と称する小丘があったことから古墳の名残ではなかろうかと考えられました。現在まで周辺の発掘調査では、古墳の痕跡を示すものは発見されておらず、その詳細については不明です。

三宅古墳跡(三宅1号墳跡)【みやけこふんあと】

 三宅中4丁目に位置する古墳跡です。古い航空写真に見られる土地区画の形状から古墳跡であろうと考えられました。その形状は円墳ないしは帆立貝式古墳と考えられ、円墳であった場合、直径は周濠を含め約70メートルになり、帆立貝式古墳であった場合、その全長は周濠を含めて約90メートルに及びます。しかしながら発掘調査では、ほとんどその痕跡を残してはいませんでした。なお三宅地区では、権現山古墳跡やその他古墳がかつてあったかもしれない地名(小字名)が残っているなど将来的に古墳跡が発見される可能性がありますので、当古墳を三宅1号墳とも称しておきます。

山ノ内古墳跡【やまのうちこふんあと】

 上田5丁目に位置する古墳跡です。古くから土地区画の形状から前方後円墳跡ではないかと考えれていました。前方後円墳であった場合、周濠を含め全長200メートル程度の大古墳となり、大塚山古墳との関連が注目されます。しかしながら発掘調査においては、現在までのところ古墳の存在を示す資料に乏しく、今後の成果を待つのみです。

立部古墳群跡【たつべこふんぐんあと】

 立部遺跡内の松原市立大塚青少年運動広場西側の発掘調査で、古墳跡が発見されました。古墳跡は直径約11メートルの円墳をはじめ、一辺4メートルから11メートルの方墳で、発掘調査では7基確認できましたが、調査区外へ伸びているものもあり、周辺を調査すればさらにその数は増えるものと思われます。
 出土遺物には、須恵器杯、円筒埴輪などのほかに甲冑形埴輪の一部や剣形埴輪などがありました。出土遺物の年代から古墳時代中期後半から後期にかけて築造された古墳群であることがわかりました。なお、調査地の約500m北に所在する大塚山古墳との関係はよくわかっていません。

 古墳の築造終了後も、平安時代前期にかけて土壙墓、火葬墓、木棺墓が造られ、墓地としての土地利用が継続します。この墓地を造営した具体的な氏族名は不明ですが、立部周辺を本貫地とした在地氏族層である可能性が高いと考えられます。

立部古墳群全景(東から)

立部古墳群全景(東から)

円墳SZ1001

円墳SZ1001(東から)

 
方墳SZ2001

方墳SZ2001(南東から)

火葬墓ST2005

火葬墓ST2005(北から)

 
木棺墓ST1088

木棺墓ST1088(西から)

土壙墓ST2003

土壙墓ST2003(西から)

 
剣形埴輪

剣形埴輪

甲冑形埴輪

甲冑形埴輪

 
朝顔形円筒埴輪

朝顔形円筒埴輪

 
 

松原市文化財情報誌たじひのだより19では、立部遺跡・立部古墳群跡で見つかった平安時代の火葬墓について特集しています。

立部遺跡・立部古墳群跡の発掘調査報告書は、全国遺跡報告総覧で閲覧いただけます。


 

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