104 民俗文化財としての「力石」

力石(我堂八幡宮蔵)の写真
力石(熱田神社蔵)の写真
力石(最勝寺蔵)の写真
力石(城連寺・池内共同墓地所在)の写真

力石
上左:我堂八幡宮蔵、
上右:熱田神社蔵、
下左:最勝寺蔵、
下右:城連寺・池内共同墓地所在(島田秀郎さん撮影)

若者たちが力競べをした鍛錬と娯楽の道具の大石

 全国各地で、江戸時代後期から昭和初期にかけて、石を用いた力試しが若者たちによって盛んに行われました。その石は「力石」とよばれ、楕円形をし、表面に凹凸が少ない自然石が使われました。年号、人名、重量なども刻まれています。
 重量は、20貫(75キログラム)~30貫(113キログラム)前後でした。これは、昔の農村の若者は米俵を担ぐ力仕事が多く、その米俵一俵は16貫(60キログラム)を基準としていました。ですから、力自慢をするには16貫が最低基準であり、それ以上の重さを持ち上げなければならなかったのです。
 力石は、おもに公民館の広場、神社や寺院の境内に置かれました。市域でも、天美我堂4丁目の我堂八幡神社に6こ、天美北5丁目の最勝寺に4こ、別所6丁目の熱田神社に1こ、天美北7丁目の城連寺・池内共同墓地に1こが残されています。
 四日市大学教授の高島愼助さんの著『大阪の力石』(岩田書院)には、我堂八幡神社の力石を「明治石 東連中 □□□」縦51余×横41×幅21センチメートル、「金剛石 東連中」56余×42×23センチメートル、「八幡石 西連中」51余×43×19センチメートル、「龍王石 西連中」51余×40×16センチメートル、「力石 東連中」50余×37×22センチメートル、「力石 西連中」46余×41×15センチメートルと記しています。
 これらは「明治石」や「八幡石」から、同社が江戸時代には十五社とよばれ、明治期以降、八幡神社と称しますので、明治時代に用いられたものです。それも、我堂村は明治8年に東西我堂村が合併しましたので、「東連中」「西連中」から明治初期としぼりこめます。
 最勝寺(城連寺村)の4つの力石には「力石 若中」「力石 三十メ 若中」「力石 □十六メ目 若中」「天龍石 若中」とあります。「天龍石」の名は「龍王石」と同じく、神秘な力を持っている意味からつけられたのでしょう。
 熱田神社力石には、「力石 今宮 □六町 佐吉」とあり、縦48余センチメートル、横49センチメートル、幅23センチメートルを測ります。力持ちの佐吉が、この大石を持ち上げた記念として名を刻んだのでしょう。
 城連寺・池内共同墓地の力石は、迎地蔵前の無縁仏南段に置かれています。「力石 明治四十一年五月 池内 若中 太田音松」とあります。天美東8丁目の島田秀郎さんのご教示によると、これは池内村の太田音松(のち三九造)が18歳のとき、同村の湯谷半兵衛家(現、湯谷浩さん)に置かれていた力石を200メートル離れた自宅(現、太田喬夫さん)まで持ち上げてきて、褒美としてゆずりうけたものです。のち、音松がこれを自分の墓石にしてほしいといったことから、墓地に祀られているのです。
 一昔前までの若者たちの鍛錬であるとともに、娯楽の道具であった力石を後世に残すため、今後は民俗文化財として保存されなければなりません。

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